スキップしてメイン コンテンツに移動

投稿

9月, 2015の投稿を表示しています

ミニマム/ダンディズム blackbird books さん

理想の家は?ともし聞かれたら、ぼくはこう答える。

 庵 ーーー 。


いほ【庵・廬】イオ(名)
 草木を結んで造った簡単な仮家。僧の仮の住居。または農事に役立てる。
 「いほり」。「わがーーは都のたつみ(=東南)」〔古今〕

いほり【庵・廬】イオリ(名)
 一.「いほる」こと。「いほ」に宿ること。「いづれの島にかーーせむ」〔万〕

いほる【庵る】イオル(自動四)
 「いほ」を造って住む。「河口の野べにーー・りて」〔万〕


出典:明解古語辞典 金田一京助監修 三省堂 昭和二十四年発行
坐して半畳寝て一畳。 これは、ぼくの生活信条のうちのひとつといっていい。 いかに住まおうか、あるいはどう存在してみせようか、ということを考えるとき、 どうしてもこの言葉に行き着く。 畳一畳分の一隅に古い坐卓を置き、そこに坐禅用の坐布団を敷いて坐る。 疲れたら、その坐布団を枕にして横たわる。 東京の国立の六畳間でひとり暮らしをしていたころから、それをよしとしてきた。 いまも、それはかわらない。おそらくこの先もこの信条を失うことはないとおもう。





















レヴィナスがこんなことを書いている。
「眠りへの誘いは、横たわるという行為のうちに生まれる。横たわる、それはまさしく  実存を場所に、位置に限定することである。」
『実存から実存者へ』エマニュエル・レヴィナス;Emmanuel Levinas
ひとつの存在として、どれだけミニマムであれるかということをもの凄く考えてしまう。 ぼくが蜆という名を好んで名乗るのも、それとムカンケイではない。 しかし、ぼくのこのミニマム志向がいつからはじまったのかというと、よくわからない。 天満のとある立ち呑み処で、酒の入った白い湯呑み茶碗の底を見つめて、 「この湯呑みひとつで完結できる世界がいい」と、ぼくはおもったものだったが、 これも、ぼくのなかのどこかに、ミニマムからはじめなければどうにもならないという 考えがあるためだろう。
ミニマムということを別の言い方に置きかえると、
限るとか、区切るということになるのではないかとおもう。
限ることでそこから何かが溢れ返っていく。しかし、限らなければ、次はない。
たとえば、生命は生体膜という境界をつくり、外と内を区切った。
区切ったことにより、生命体という個体として存在することに成功した。
つまり、いったん〝閉じ〟たわけだ。
閉じてどうなったかというと「内側」ができた。
内側ができると、内から外を見ること…

何者か。何物か。

とある催し物にまぎれこんできた。
その会場で「彼」とばったり会った。

彼というのは、
委託販売をしてもらっている居留守文庫で最初に蜆TuReを買ってくれた
記念すべき第一号の稀有な青年のことである。
この催し物に出る前に、
店主(岸昆氏)から「昨日一冊売れました」という知らせがとどいていた。
買ってくれたのは、常連の文学青年であると。
むろん、ぼくはその青年と面識がなかったが、
その奇特でありがたい青年とぜひこんど話をさせてくださいと
店主に伝えたばかりだった。

そうしたら、ばったり会ってしまったのである。
会ったというのは正確ではない。彼が、ぼくの存在を見つけてくれた。
ちょうど開場してから三時間ほど経ったころだった。
ぼくのブース(というほど立派なものではないが)に立ち寄る人はひとりもいなかった。
そこへ、ふわあっと〝なにか告げたさそうなけはい〟を持った人が机越しに
あらわれたのだ。持参していた原稿の上に視線を落としていたぼくは、
そのけはいに気がついてすっと顔を上げた。
「こんにちは」
マスクをしたひょろりと背の高い青年は、
まるで「やあこの前はどうも」というような雰囲気でさらりとぼくに挨拶をしてくれた。
まさに、挨拶をしてくれた、という感じだった。
(こんにちは?)
何者か、とおもった。しかし青年は「さあわたしはだれでしょう?わかりますか?」と
いわんばかりに目元をゆるめてぼくに笑いかけてくる。
いよいよわからないという顔をしているぼくに、彼は答えをおしえてくれた。
「このあいだ居留守文庫で買いました」
ああ!あなたが!そういって、ぼくは椅子から立ち上がり、その青年に頭を下げた。
彼は、ぼくが店主から知らせをもらっていることをとうぜん知らないわけだったが、
ああ!あなたが!とぼくがおどろきの声をあげたとき、
ぼくには、その青年がとても満足げな表情を浮かべているように見えた。

聞くと、彼はこういう催し物をやっていることをいままで知らなかったようだった。
ぼくはぼくで、はじめてだったし、しかもほとんどまぎれこんだようにブースにいたの
だから、彼とぼくがこの会場で鉢合うのはほんとうに偶然といっていいだろう。
ふしぎなこともあるものだ。
彼は、読んだら感想を送りますと約束してくれた。
これも店主のはからいで、
どうやら読者からの感想が次号に載るかもしれない、という案内があったそうである。
「応援しています」
そういって、青年は少し照れを隠す…

動機と嫌疑

作品のなかに書き手を匿うこと。
作品は語られ得るテキストとして表出し、存在し、
そして書き手はどこにもいないようであること。
ぼくはそれを願い、そういうあり方のためならば書きたいと思った。 そこに世界や他者を見るうえでの界面が敷ける(とみなせる)のではないかと考えた。
書き手を匿うというのをもう少し踏み込んでいえば、 書き手の「症状」を匿うということである。 そうして書き手はこう思うのだ。 「読み手はテキストからその症状を読み取るだろう」と。 しかし、この時点で、書き手はもう読み手を失っているのではないだろうか。 ここにあるのは、書き手から読み手に対する一方的な〝要求〟なのである。 「読み取ってほしい」という魂胆ならば、それは甘えといってもいい。 いったい誰がそんなものを好きこのんで読むだろう。
少なくとも書き手の態度としては、相応しくない。
言語の症状をテキスト化するーーー 環境を含んだ言語としてテキストを扱うーーー たとえばそういった〝取って置き〟の動機を胸にしまい、ひとにはその手の内を
明かさぬまま、 テキスト(あるいはインク)のなかにたたまれた、その向こうがわにあるスペースを できるだけうすく、透明に、平明に、展開してみせたい。 ぼくが抱えていたこういう〝取って置き〟の信条は、いちど見事に挫折した。
〝取って置き〟といいながら思わせぶりに閉じていた羽は、
何もひらかれぬ前にぐちゃりとつぶれてしまったのである。

時間をかけ渾身のなにかを込めて書いたつもりの作品が、「わからない」という
冷えた戸惑いに迎えられたときのさびしさといったらない。
読んでもらえるだろうと見積もって積み上げた数々のテキストが、まさか
ほとんど読むに堪えないものであったとは!ああ、ぼくは無をつくってしまったのか!

ぼくは、そのさびしさに支えられて蜆TuReを創刊した。
もうこういうさびしい気持ちはしたくないとおもって、つくった。
いや、これからつくっていくといったほうがいい。
ひとつ屈託のないものにしたい。
書き手としてのみずからの、動機と信条を嫌疑にかけて。



無名のために

ぼくは、とある番外地を歩いていた。
 T字路にさしかかったところで、とつぜん後ろから男の声がした。
 「お前はいったい誰なんだ?」
 ぼくは振り返らずにこう答えた。
 「わたしは無名の偽名の誰かなのです」
 「冗談は名前だけにするんだな!」
 男はそういうと、ぼくをものすごいはやさで追い越して壁のなかへ消えていったーーー


これはもちろんつくり話である。
しかし、ぼくの名前は冗談などではない。本気である。



これからはシジミと名乗ることにいたします、と人にいうと、
「アサリじゃなくてシジミなのね」と返ってくることが多い。
アサリではだめなのだ。アサリでは、大きすぎるからである。
シジミも、淡水の砂礫に生息するマシジミではなく、汽水域の砂泥の底に生きるヤマト
シジミでなければならない。
あの黒色に白縞の斑の入った、
うすいもろい殻をしたヤマトシジミでないと、だめなのだ。
まちがわないでいただきたい。
ぼくはいま、二枚貝綱異歯亜綱シジミ科に分類される二枚貝であるところのシジミを
食べるときの話をしているのではない。
シジミという名を名乗るときのぼくの態度の話をしているのである。
といっても、なんのことだかさっぱりかもしれない。
くわしいことはまた別の機会に譲るとして、
いま非常にかんたんにいってみると、
シジミ(ヤマトシジミ)の、小さくて、簡素で、枯淡な味わいのある、
それでいてどこか鉱物のささやきに似たひそやかな感じに、
深い共感と親しみを抱いている、と、おおむねそういったところになる。
ほんとうにひとことでいってしまうと、ぽつねんとして侘びた様。
これだろうか。

シジミの下の名前はフスイという。不水とかく。
これをきいて、
「水がないと死んじゃうんじゃないの、しじみって??」
と心配してくださった方がいた。
ぼくはおもわず苦笑いをしてしまったのであるが、
不水というのは、かりに漢文読みすれば「水ではない(水にあらず)」であって、
「水がない」とはならないのですから、どうか嘆きたもうことなかれ。
しかしこの笑い話に乗じていうと、
ぼくは砂泥にうもれてじっと黙ったまま生きている、いや、まるで死んでいるかのように
生きているこの小さな亡霊みたいな貝たちを心からめでたい。

「不」の字は、〝間投詞〟のようなものだとおもってもらえるといい。
さしずめ、「やれやれ」くらいのニュアンスだろうか。
しかしこれは建前。本音はべつにある。
この「不」の字は、ぼくが抱え…