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無名のために



 ぼくは、とある番外地を歩いていた。
 T字路にさしかかったところで、とつぜん後ろから男の声がした。
 「お前はいったい誰なんだ?」
 ぼくは振り返らずにこう答えた。
 「わたしは無名の偽名の誰かなのです」
 「冗談は名前だけにするんだな!」
 男はそういうと、ぼくをものすごいはやさで追い越して壁のなかへ消えていったーーー


これはもちろんつくり話である。
しかし、ぼくの名前は冗談などではない。本気である。



これからはシジミと名乗ることにいたします、と人にいうと、
「アサリじゃなくてシジミなのね」と返ってくることが多い。
アサリではだめなのだ。アサリでは、大きすぎるからである。
シジミも、淡水の砂礫に生息するマシジミではなく、汽水域の砂泥の底に生きるヤマト
シジミでなければならない。
あの黒色に白縞の斑の入った、
うすいもろい殻をしたヤマトシジミでないと、だめなのだ。
まちがわないでいただきたい。
ぼくはいま、二枚貝綱異歯亜綱シジミ科に分類される二枚貝であるところのシジミを
食べるときの話をしているのではない。
シジミという名を名乗るときのぼくの態度のしているのである。
といっても、なんのことだかさっぱりかもしれない。
くわしいことはまた別の機会に譲るとして、
いま非常にかんたんにいってみると、
シジミ(ヤマトシジミ)の、小さくて、簡素で、枯淡な味わいのある、
それでいてどこか鉱物のささやきに似たひそやかな感じに、
深い共感と親しみを抱いている、と、おおむねそういったところになる。
ほんとうにひとことでいってしまうと、ぽつねんとして侘びた様。
これだろうか。

シジミの下の名前はフスイという。不水とかく。
これをきいて、
「水がないと死んじゃうんじゃないの、しじみって??」
と心配してくださった方がいた。
ぼくはおもわず苦笑いをしてしまったのであるが、
不水というのは、かりに漢文読みすれば「水ではない(水にあらず)」であって、
「水がない」とはならないのですから、どうか嘆きたもうことなかれ。
しかしこの笑い話に乗じていうと、
ぼくは砂泥にうもれてじっと黙ったまま生きている、いや、まるで死んでいるかのように
生きているこの小さな亡霊みたいな貝たちを心からめでたい。

「不」の字は、〝間投詞〟のようなものだとおもってもらえるといい。
さしずめ、「やれやれ」くらいのニュアンスだろうか。
しかしこれは建前。本音はべつにある。
この「不」の字は、ぼくが抱える態度の背骨に当たる。心臓部といってもいい。
その話は少し長くなるし、きっと成功しないので、いまはしないことにする。

そして、水。
ぼくは水が好きだ。水がつく名前が好きだ。
川瀬巴水、杉浦非水(この非の字も捨てがたい)、半井桃水、若山牧水、、
こうして声に出しているだけで、うちがわからしゅうしゅう音をたてて、このからだが
水になり霧になり、やがて気化していなくなっていく心地よい透明感覚がおとずれる。
それはおそらく、
[sui][sjui]という「水」字の音韻にからだが反応するためではないかとおもう。


この先筆をとるかぎり、ぼくはこの名を名乗りつづけるつもりでいるが、
ぼくは、ぼくがこの名を名乗ることによって、
ぼくが永久に無名でいられることをのぞんでいるのだということを
さいごに付け加えておきたい。



蜆TuRe@居留守文庫






コメント

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映像日記

2月14日 水
非番。復調。寒し。
週末ゴダール。インタビューや批評つまみ読み。ドゥボール。situs状況主義。インタビューは何より興味深い。
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ポルトガルで起きたカーネーション革命を下敷きに、「視線」についての考察が中心を流れている。
タイプライターの手を動きと文章を読む目の動きの類比。
視線を司るものは?「文章」。
画面に映し出されるタイポ文字のカーソルの動き。
文章はそれを読む(見る)視線の前で意志を持って動き、視線を監視している。
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だが、
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「最後に、《俳優と観客の間にある映画》というタイポ文字のタイトルが、
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文字を打つ作業と打たれた文字がそこに表象として写し出される現象とのあいだにあるものについて。
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いずれもそうであってそうでない。
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作業や現象が、それが可能になっていく(展開していく)過程で一貫して何かに司られているとするならば、
はじめに「受動ありき」ということがいえるのである。
能動は受動に後押しされていると(呼吸についておもいをめぐらしてみる。呼吸はまず「吐く」ありき。

infra-mince考/『マルセル・デュシャン、メモ』No.10をめぐって

Matsuoka Seigow氏が、あるとき、少人数を対象に行った講習会の場で、こんなことをお話しされた。

「いま、僕は諸君に向かってこうやってマイクでしゃべってます。僕の後ろには、ホワイトボードがあって、そこには
何か文字が書かれてる。で、ここで僕がこう、ホワイトボードのほうを振り返る。そうすると、諸君のほうを向いて
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いい?そのときに、喋っている僕と、何か書こうとして振り向くホワイトボードとの〝間〟に、何があるか、ということ
なんです。いい?そこを知りたいわけです。僕とホワイトボードの〝間〟がどうなっているか。」

数多く聞いた興味深い話のなかで、この話はいまでも私の記憶のなかに視覚情報と一緒に残っている。
「間 あいだ」というのは、Seigow氏がとても重要視している見方で、精神科医であり哲学者の木村敏さんも、
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私がここで、わざわざこの〝間〟という言葉を引き合いに出すのは、
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infra-mince/アンフラマンス
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 この意味を的確に言いあらわす日本語をうまく思いつかないので、この訳稿では《極薄》という語をあてているが、
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蜆がゆく! たけうま書房さん(横浜)/汽水空港さん(鳥取)/古本 冬營舎さん(島根)

ただいま蜆は、たびかさなる細胞分裂をくりかえし、
じょじょに〝二号〟になろうとしておるところであります。


だいぶ間があいてしまいましたが、
あらたに3つの店舗で蜆TuReを取り扱っていただけることになりました。

ひとつは、横浜市中区にありますたけうま書房さん。
創刊号に掲載した短編が小学校をぶたいにした話でしたので、
ぜひ横浜の(小生はハマっ子でした)お店にも、ということで置いていただいています。

それから、鳥取県松崎の東郷池のほとりにたたずむ汽水空港さん。
ぼくは、ここの店主のモリテツヤさんのファンになりました。
踏み込んでいえば、いろいろ影響されたい(とおもわせてくれる)ひと。
モリさんは、ちょっと抜けてる、つまり、
感性がズ抜けている、あるいはひょうげているといったらいいでしょうか。
そういう感じが個人的にいたします。

そしてそして、島根におわす古本 冬營舎さん。
ぼくがいちばん置いてもらえたらうれしいのになあ、とおもっていたお店であります。
なぜそんなにうれしいか?
冬營舎さんは、シジミの日本一の産地であるあの宍道湖をのぞむお店なんですね。
もちろんヤマトシジミです。
いわばシジミの古里、いやシジミのトポスといっていいすぎることはありません。
シジミの縁。に感無量。
こちらのページでさっそくご案内くださっていました。店主さまありがとうございます)

前にもぼくは書きましたが、シジミがとれるのは汽水域です。
汽水域。あれちょっと待てよとおもい、東郷池は汽水域なのではないかと調べてみると、、
やはり。東郷池は汽水湖でした。
あ!だから、「汽水空港」という名前なんだ!とそれで気がつく鈍感なぼくです。
モリさんにおたずねしたら、東郷池でもシジミがとれるとのことでした。
なんと!すごいすごい。
日本列島ひろしといえど、シジミのとれる地域はかぎられているんですし、
まして、古書店さんがある地域はもっとかぎられているわけですから、
んー、、心がおどります。

では、たけうま書房さんはどうだろう、、とためしに調べてみますと、
ここがなんと大岡川と横浜港とが合流する汽水域に近かったのであります。


シジミがシジミをさそい、蜆TuReは日本列島を縦断していく、、と。
蜆よ、ゆけ〜!