スキップしてメイン コンテンツに移動

動機と嫌疑



作品のなかに書き手を匿うこと。
作品は語られ得るテキストとして表出し、存在し、
そして書き手はどこにもいないようであること。
ぼくはそれを願い、そういうあり方のためならば書きたいと思った。
そこに世界や他者を見るうえでの界面が敷ける(とみなせる)のではないかと考えた。

書き手を匿うというのをもう少し踏み込んでいえば、
書き手の「症状」を匿うということである。
そうして書き手はこう思うのだ。
「読み手はテキストからその症状を読み取るだろう」と。
しかし、この時点で、書き手はもう読み手を失っているのではないだろうか。
ここにあるのは、書き手から読み手に対する一方的な〝要求〟なのである。
「読み取ってほしい」という魂胆ならば、それは甘えといってもいい。
いったい誰がそんなものを好きこのんで読むだろう。
少なくとも書き手の態度としては、相応しくない。

言語の症状をテキスト化するーーー
環境を含んだ言語としてテキストを扱うーーー
たとえばそういった〝取って置き〟の動機を胸にしまい、ひとにはその手の内を
明かさぬまま、
テキスト(あるいはインク)のなかにたたまれた、その向こうがわにあるスペースを
できるだけうすく、透明に、平明に、展開してみせたい。
ぼくが抱えていたこういう〝取って置き〟の信条は、いちど見事に挫折した。
〝取って置き〟といいながら思わせぶりに閉じていた羽は、
何もひらかれぬ前にぐちゃりとつぶれてしまったのである。

時間をかけ渾身のなにかを込めて書いたつもりの作品が、「わからない」という
冷えた戸惑いに迎えられたときのさびしさといったらない。
読んでもらえるだろうと見積もって積み上げた数々のテキストが、まさか
ほとんど読むに堪えないものであったとは!ああ、ぼくは無をつくってしまったのか!

ぼくは、そのさびしさに支えられて蜆TuReを創刊した。
もうこういうさびしい気持ちはしたくないとおもって、つくった。
いや、これからつくっていくといったほうがいい。
ひとつ屈託のないものにしたい。
書き手としてのみずからの、動機と信条を嫌疑にかけて。



コメント

このブログの人気の投稿

映像日記

2月14日 水
非番。復調。寒し。
週末ゴダール。インタビューや批評つまみ読み。ドゥボール。situs状況主義。インタビューは何より興味深い。
アンヌ・マリー=ミエヴィルとの共作『Comment ça va?』
ポルトガルで起きたカーネーション革命を下敷きに、「視線」についての考察が中心を流れている。
タイプライターの手を動きと文章を読む目の動きの類比。
視線を司るものは?「文章」。
画面に映し出されるタイポ文字のカーソルの動き。
文章はそれを読む(見る)視線の前で意志を持って動き、視線を監視している。
視線が文章を追うのではなく、文章が視線を追う。
映像を撮ることも映像を観ることも可能
だが、
そこにあるべき「視線」そのものを描くことは(可能かどうかというより)許されているのか?

「最後に、《俳優と観客の間にある映画》というタイポ文字のタイトルが、
 冒頭の《能動と受動の間にある映画》に打ち消された後消去され、
 カーソルだけが空しく動き続けて映画は終わる」(E/M Books 2)

文字を打つ作業と打たれた文字がそこに表象として写し出される現象とのあいだにあるものについて。
「文字を打つという作業」が、打つ人とは別の主体性で、何か別の作業を行っているという仮説に立って。
思考というものがどこから来て、その思考がどのように表象化するのか、
どのようにそれが可能なのかということについての考察へ。
司るものがあるとして。
それは打つ人の内部に?写し出される文字の側に?あるいは作業をする手に?
文字の(カーソルの)動きのほうに?
いずれもそうであってそうでない。
なぜならば、いずれかが司っているということはないから。それらは一貫して司られているといえないか。
物としての文字も文字の動きも作業する手も手を動かす意識や神経伝達の部門も、一貫して。
では何によって司られる?
その「何によって(あるいは、どうやって)」を探究する考察の上に哲学があり、
その探究の影響の上に心理学があり、その探究の質的転移(表象化)の上に芸術がある。
作業や現象が、それが可能になっていく(展開していく)過程で一貫して何かに司られているとするならば、
はじめに「受動ありき」ということがいえるのである。
能動は受動に後押しされていると(呼吸についておもいをめぐらしてみる。呼吸はまず「吐く」ありき。

infra-mince考/『マルセル・デュシャン、メモ』No.10をめぐって

Matsuoka Seigow氏が、あるとき、少人数を対象に行った講習会の場で、こんなことをお話しされた。

「いま、僕は諸君に向かってこうやってマイクでしゃべってます。僕の後ろには、ホワイトボードがあって、そこには
何か文字が書かれてる。で、ここで僕がこう、ホワイトボードのほうを振り返る。そうすると、諸君のほうを向いて
喋っている僕は、ホワイトボートのほうへ体を向ける僕へ移っていく、入れ替わっていくわけですね。そのときに、
いい?そのときに、喋っている僕と、何か書こうとして振り向くホワイトボードとの〝間〟に、何があるか、ということ
なんです。いい?そこを知りたいわけです。僕とホワイトボードの〝間〟がどうなっているか。」

数多く聞いた興味深い話のなかで、この話はいまでも私の記憶のなかに視覚情報と一緒に残っている。
「間 あいだ」というのは、Seigow氏がとても重要視している見方で、精神科医であり哲学者の木村敏さんも、
この言葉を好んで使われている。私は、あまりに頻繁にこの言葉が使われている場面に触れすぎていたのと、
あまりに簡単に使えてしまう言葉であると思っていたこともあって、意図的に用いないようにしていた。
Seigow氏が、この言葉を通して、微妙きわまりないことを説明しようとしているのは、感覚的にわかっていた。
表現へ向かう私の動機が、そういう微妙きわまりない方面に隣接しているという自覚もあった。
だから、なおのこと、言語化をする手前で据え置きしたいという気持ちがあったのである。
分かったようなつもりで口にしたくなかったのだと思う。


私がここで、わざわざこの〝間〟という言葉を引き合いに出すのは、
マルセルデュシャン(Marcel Duchamp)が残した infra-mince という暗号のような造語について、
何かを言わなければならないと思ったためである。

infra-mince/アンフラマンス
(infra-:「下部、下方」の意をあらわす接頭辞 mince:「薄い」)

岩佐鉄男氏によって、「極薄」と訳されたM.デュシャンの物の見方である。
訳者の岩佐氏は次のように言及している。

 この意味を的確に言いあらわす日本語をうまく思いつかないので、この訳稿では《極薄》という語をあてているが、
 たんに「極めて薄い」というのではなく、ちょうど赤外線infrarou…

蜆がゆく! たけうま書房さん(横浜)/汽水空港さん(鳥取)/古本 冬營舎さん(島根)

ただいま蜆は、たびかさなる細胞分裂をくりかえし、
じょじょに〝二号〟になろうとしておるところであります。


だいぶ間があいてしまいましたが、
あらたに3つの店舗で蜆TuReを取り扱っていただけることになりました。

ひとつは、横浜市中区にありますたけうま書房さん。
創刊号に掲載した短編が小学校をぶたいにした話でしたので、
ぜひ横浜の(小生はハマっ子でした)お店にも、ということで置いていただいています。

それから、鳥取県松崎の東郷池のほとりにたたずむ汽水空港さん。
ぼくは、ここの店主のモリテツヤさんのファンになりました。
踏み込んでいえば、いろいろ影響されたい(とおもわせてくれる)ひと。
モリさんは、ちょっと抜けてる、つまり、
感性がズ抜けている、あるいはひょうげているといったらいいでしょうか。
そういう感じが個人的にいたします。

そしてそして、島根におわす古本 冬營舎さん。
ぼくがいちばん置いてもらえたらうれしいのになあ、とおもっていたお店であります。
なぜそんなにうれしいか?
冬營舎さんは、シジミの日本一の産地であるあの宍道湖をのぞむお店なんですね。
もちろんヤマトシジミです。
いわばシジミの古里、いやシジミのトポスといっていいすぎることはありません。
シジミの縁。に感無量。
こちらのページでさっそくご案内くださっていました。店主さまありがとうございます)

前にもぼくは書きましたが、シジミがとれるのは汽水域です。
汽水域。あれちょっと待てよとおもい、東郷池は汽水域なのではないかと調べてみると、、
やはり。東郷池は汽水湖でした。
あ!だから、「汽水空港」という名前なんだ!とそれで気がつく鈍感なぼくです。
モリさんにおたずねしたら、東郷池でもシジミがとれるとのことでした。
なんと!すごいすごい。
日本列島ひろしといえど、シジミのとれる地域はかぎられているんですし、
まして、古書店さんがある地域はもっとかぎられているわけですから、
んー、、心がおどります。

では、たけうま書房さんはどうだろう、、とためしに調べてみますと、
ここがなんと大岡川と横浜港とが合流する汽水域に近かったのであります。


シジミがシジミをさそい、蜆TuReは日本列島を縦断していく、、と。
蜆よ、ゆけ〜!