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何者か。何物か。



とある催し物にまぎれこんできた。
その会場で「彼」とばったり会った。

彼というのは、
委託販売をしてもらっている居留守文庫で最初に蜆TuReを買ってくれた
記念すべき第一号の稀有な青年のことである。
この催し物に出る前に、
店主(岸昆氏)から「昨日一冊売れました」という知らせがとどいていた。
買ってくれたのは、常連の文学青年であると。
むろん、ぼくはその青年と面識がなかったが、
その奇特でありがたい青年とぜひこんど話をさせてくださいと
店主に伝えたばかりだった。

そうしたら、ばったり会ってしまったのである。
会ったというのは正確ではない。彼が、ぼくの存在を見つけてくれた。
ちょうど開場してから三時間ほど経ったころだった。
ぼくのブース(というほど立派なものではないが)に立ち寄る人はひとりもいなかった。
そこへ、ふわあっと〝なにか告げたさそうなけはい〟を持った人が机越しに
あらわれたのだ。持参していた原稿の上に視線を落としていたぼくは、
そのけはいに気がついてすっと顔を上げた。
「こんにちは」
マスクをしたひょろりと背の高い青年は、
まるで「やあこの前はどうも」というような雰囲気でさらりとぼくに挨拶をしてくれた。
まさに、挨拶をしてくれた、という感じだった。
(こんにちは?)
何者か、とおもった。しかし青年は「さあわたしはだれでしょう?わかりますか?」と
いわんばかりに目元をゆるめてぼくに笑いかけてくる。
いよいよわからないという顔をしているぼくに、彼は答えをおしえてくれた。
「このあいだ居留守文庫で買いました」
ああ!あなたが!そういって、ぼくは椅子から立ち上がり、その青年に頭を下げた。
彼は、ぼくが店主から知らせをもらっていることをとうぜん知らないわけだったが、
ああ!あなたが!とぼくがおどろきの声をあげたとき、
ぼくには、その青年がとても満足げな表情を浮かべているように見えた。

聞くと、彼はこういう催し物をやっていることをいままで知らなかったようだった。
ぼくはぼくで、はじめてだったし、しかもほとんどまぎれこんだようにブースにいたの
だから、彼とぼくがこの会場で鉢合うのはほんとうに偶然といっていいだろう。
ふしぎなこともあるものだ。
彼は、読んだら感想を送りますと約束してくれた。
これも店主のはからいで、
どうやら読者からの感想が次号に載るかもしれない、という案内があったそうである。
「応援しています」
そういって、青年は少し照れを隠すように目を泳がせた。
面とむかってそういわれると、なかなか恥ずかしいものである。
ぼくは顔をふせ、礼をいい、そこで彼とは別れた。

そのあとしばらくして、見ず知らずの二人のかたがブースの前で立ち止まり、
見本を手にとりカードを持ち帰ってくれた。

作品が人や契機や関係を呼び寄せるのならば、それは作品の持つ力のためだろう。
作品にほんとうに力があるならば、人はその作品を放っては置かないはずである。
むろん、作品の存在を知ってもらう努力は要る。
ただ、その場合の作品というのは、
付帯する意味や価値などの環境に依拠し、それらの環境を含んだものである。
糸井重里が、「一斗缶に入れた高級化粧水を高架下で安く売ってもだれも買わない」
という話を前にしていたことがある。
商品は環境込みで商品だ、ということをいうためのたとえ話だった。
高級でお洒落なイメージを感じさせるパッケージデザイン。華やかにライトアップ
された店内。洗練されたアドバタイジング。綺麗なディスプレイ。それをつけたときに
感じられるであろう気分。ステイタス。満足感。あるいは、買うときの高揚感。
そういうものをひっくるめて、ひとつの商品が買う人との関係をつくり、
買う人の買いたいという欲望をつくり、最終的に買うという行為をつくる。

だから、ぼくがこのごろよくおもうのは、
「物を買う」という行為はかんたんなように見えて、案外奥が深いということだ。
買うひとが、その物とじぶんとのあいだにいくつかの前向きな関係を認めたうえで、
はじめてOKを出しているからである。
その物が、はたしてどれだけ売る相手に対して〝関係を持ちたいとおもわせる〟要素を、
つまり環境を含んでいるか。
買うがわには、それが透けて見える。
そういう意味では、たいへんわかりやすい。

じぶんなりに意味や価値を付帯させてつくった作品を、
ひとに買ってもらうために、ひと目に触れさせるために並べてみると、
いったいこの作品が「何物」なのかというのが見えてくる。
それは面白いことである。

蜆TuRe@催し物会場


















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続 工場日記

その一 「痛み」

僧帽筋、脊柱起立筋、左三角筋、左手尺骨三角骨靭帯、胸鎖乳突筋…
これまでに労働をつうじて特に試練をしいられてきた主な部位たち。
なかでも胸鎖乳突筋の痛みには完全に参った。
ある夏の晩、寝ちがえる。首に経験したことのない激痛が走る。
数日前から頸部を中心に体の痛みをおぼえていたのであったが、
そこに、Liquorの過剰投与とその後のまずい体勢での寝入りが引き金となり、
トドメを刺されたかたちである。
首を回せない。寸分動かそうものなら、稲妻が走る。
そうなれば蚊の鳴くような声で泣くしかない。咀嚼もままならない。
患部を揉み揉み、なんとか読書ができるくらいまで回復したその日の晩、ふたたび激痛。
いよいよ万事休すと近くに整体院がないかを調べることに。
調べていくあいだに、寝違えのことがわかってくる。
どうも、寝違えというのは、
腋内側に走っている「腋窩(えきか)神経」が圧迫されて起こるようである。
寝違えて頸部に痛みを感じた多くの人は、首を揉んだり横に曲げて伸ばしたりするが、
これは一番行ってはいけないことなのだそうだ。
理由は、頸部の筋肉はいままさに炎症を起こし圧迫されている状態なのであって、
そこを揉めば圧迫に拍車をかけ、さらなる炎症を引き起こし痛みを悪化させるため、と。
やってはいけないことをやれば、治るものも治らない。
何かいい手はないものだろうかとおもいながらさらに調べていくと、対処法なるものを見つける。
腋窩神経を圧迫から解放してあげる有効な体操。

体操1
1. 背筋をのばし脱力。
2. 痛む側の腕を後方へ引き、少しずつ上げる。
(手首はだらりと垂らす)
2. 上がりきったところで、20秒キープ。腕をゆっくり戻す。(2セット)

体操2
1. 痛む側の手を腰に当てる。
2. 肘を後方へ引く。
3. 引ききったところで、20秒キープ。腕をゆっくり戻す。(2セット)

体操3
1. 痛む側の腕を手のひらを上にして肩の位置まで上げる。
2. 120度の角度で肘を曲げ、そのまま水平に後方へ引く。
(体はひねらず腕だけを後ろへ)
3. 引ききったところで、20秒ほどキープ。腕をゆっくり戻す。(2セット)

実際にやってみると、どうしようもなかった首の痛みが引いた。
ただ、いつあの痛みが再発するとも知れないので、しばらくは用心の日々を送ることに。

映像日記

2月14日 水
非番。復調。寒し。
週末ゴダール。インタビューや批評つまみ読み。ドゥボール。situs状況主義。インタビューは何より興味深い。
アンヌ・マリー=ミエヴィルとの共作『Comment ça va?』
ポルトガルで起きたカーネーション革命を下敷きに、「視線」についての考察が中心を流れている。
タイプライターの手を動きと文章を読む目の動きの類比。
視線を司るものは?「文章」。
画面に映し出されるタイポ文字のカーソルの動き。
文章はそれを読む(見る)視線の前で意志を持って動き、視線を監視している。
視線が文章を追うのではなく、文章が視線を追う。
映像を撮ることも映像を観ることも可能
だが、
そこにあるべき「視線」そのものを描くことは(可能かどうかというより)許されているのか?

「最後に、《俳優と観客の間にある映画》というタイポ文字のタイトルが、
 冒頭の《能動と受動の間にある映画》に打ち消された後消去され、
 カーソルだけが空しく動き続けて映画は終わる」(E/M Books 2)

文字を打つ作業と打たれた文字がそこに表象として写し出される現象とのあいだにあるものについて。
「文字を打つという作業」が、打つ人とは別の主体性で、何か別の作業を行っているという仮説に立って。
思考というものがどこから来て、その思考がどのように表象化するのか、
どのようにそれが可能なのかということについての考察へ。
司るものがあるとして。
それは打つ人の内部に?写し出される文字の側に?あるいは作業をする手に?
文字の(カーソルの)動きのほうに?
いずれもそうであってそうでない。
なぜならば、いずれかが司っているということはないから。それらは一貫して司られているといえないか。
物としての文字も文字の動きも作業する手も手を動かす意識や神経伝達の部門も、一貫して。
では何によって司られる?
その「何によって(あるいは、どうやって)」を探究する考察の上に哲学があり、
その探究の影響の上に心理学があり、その探究の質的転移(表象化)の上に芸術がある。
作業や現象が、それが可能になっていく(展開していく)過程で一貫して何かに司られているとするならば、
はじめに「受動ありき」ということがいえるのである。
能動は受動に後押しされていると(呼吸についておもいをめぐらしてみる。呼吸はまず「吐く」ありき。

みな、地球。

年始に買った築地書館の『土と内臓』(ほんとうにほんとうに面白い本)のおかげで、
幸運なことに、私のなかに微生物への愛が芽生えた。
もともと微生物に愛着はあったけれど、いよいよ全身全霊で愛していこうとおもう次第。

今回の蜆TuRe(第七號)は、海と転生というテーマでひとつ書いてみた。
ちなみに今回はタイトルが長い。
『急げブランキゆるやかに この途方もない軽さのうえへおもいをはせよ』
なんとなく、ヘンリミラーの『ビッグ・サーとヒエロニムス・ボッシュのオレンジ』みたいなアップテンポの語感がほしかった。
それはさておき、これを書いている最中、プランクトンに友情を抱き、
その友情に乗り入れるかたちで、深い微生物愛が芽生えたのだ。

なによりもまっさきに地球のことを考えたい。どうもこのごろは、そういう心情から離れられなくなりつつある。
都民ファースト都民ファーストと東の方からは聞こえてくるが、いやいや地球ファーストだろう。
この地球上のどこを切っても微生物が躍動している。土の中、海の中、空の中、さらには動物の体内までも。
微生物はいわば地球の原住民である。
はるか昔、地球の中核で煮えたぎるマグマにもっとも近い海底の墳気孔で古細菌が生まれた。
想像を絶する高温の湯に浸かりながら、酸素をいやがる嫌気性の古細菌は、
酸素をこのむ好気性の細菌との結婚のときをじっと待ち、来たるべき原生動物の誕生にそなえていた。
それから何十億年もたって、真核細胞は植物を生み、動物を生み、生命の一部は海から陸へと上がっていった。
地上では、堅い岩が気の遠くなる時間をかけて砕け、そこに動物微生物の死骸が積もり、やがて豊かな土になった。
そうやって積み重ねられた長い長い建設作業の末に、生命の原初的な土台が築かれたのである。
その歴史的事情をわきまえずに、のうのうと地球で暮らしていくのは、私はいやなのだ。
それは、なんておこがましい、なんてまずしいことか!
「私はおなかが空いた!私は飯を食いたい!」
そういって食欲を振りかざすこの私という存在は、まちがいなくこの地球で暮らしている。
そしてこの私の体のなかでは、生命の大先輩である微生物たちが暮らしているのである。
たとえば牛の体のなかはどうだろう。
牛は草を食べ、それを胃と口のあいだで何度も反芻する。
この反芻に、牛が生き延びていく上でとても重要な秘密が隠さ…