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町のきれいな〝診療所〟 レティシア書房さんの「目」




京都は高倉通り二条下がるにある レティシア書房 さんまで納品にいく。
納品だけに「納品書」を書いた。いや、お店のカウンターで書かせていただいた。
蜆TuReの納品で「納品書」を書いたのはこれがはじめてである。
本来ならば、事前に納品書を書いてモノといっしょにお渡しするのがマナー(のはず)。
ところが、まったくそういうところにアタマがおよんでいないので、
レティシア書房の店主小西さんにこのたびキョーイクしていただいたというわけである。
これからは、納品書を持って納品することにしよう(郵送のときは同封して)。


レティシアさんの店内は、ぱあーっと明るい。まずお店の顔(外観)がとても明るい。
清潔感のあるアットホームでモダンな〝町の診療所〟みたいなのだ。
もちろん本のお店なのだが、どこかドイツのPlatz(広場)を連想させる。
そう、レティシアさんのお店にはどことなくドイツの香りがする。
Platzというのは町の中心にあっていろんな人が行き交う公共の場のことである。
どうしてぼくがPlatzを思い浮かべたかというと、
小西さんのお話に耳をかたむけているうちに(たくさんお話を聞かせてもらえた)、
そのネットワーカーぶりに感銘を受けたためである。
京都だとうちのほかにはどこどこのお店…さいきんオープンしたお店だと神戸の元町に
ある◯◯さんとか△△さんとか…ここならリトルプレスを置いてくれるんじゃないかな…
ここのお店はこんなこともやってる…いちばん売れてるリトルプレスはこれでね…
それをつくってる人はこんな人で…知っといてソンはないかな…あとその本はおもしろい…
そうそう近所でこないだ新人賞をとった物書きさんがいるんだよ…などなど
レティシアさんのところへ集まってくるさまざまな生のニュースや、
店主の目をとおしたビューやイメージが、
まさに〝芋づる式〟につぎからつぎへと小西さんの口から飛び出してくる。
ぼくはおもうのだった。
「なるほど、こういう店主とお店の存在が、人の輪をどんどん豊かにふくらませていくのであるなあ」と

もうひとつ、
お話をしていて感じたことは、小西さんが「目利き」の人であるということだった。


 めきき【目利き】

 ①書画・刀剣・器物などの真偽やよしあしを見分けること。また,それにすぐれた人。  「書画の-をする」
 ②人の性質・才能などを感得する能力があること。また,その人。
 ③目がきくこと。見分けること。 「どの骨仏やら-がならぬ/浮世草子・好色万金丹」
 〔出典:大辞林第三版〕

見る人が見ればわかるという、その「見る目」の持ち主のことだ。
(蜆の字にもこの「見」と「目」が入っておりワレながら気に入っている、、これは手前味噌)
言い替えると、イイものとそうでないものとを見分ける力のある人、である。
むかしのネスカフェゴールドブレンドのCMの「(♪ダバダ〜バダバダ〜)違いがわかる男」だ。
ある何かをどう見るか。それがどう見えるか。どう見たいのか。あるいは、どう見るつもりでいるのか。
何をどう見るかーー。
ここに、その人個人の思想が出てくるのではないだろうか。
思想というのが大げさならば、信条でも魂でも存在力でもいい。
そしてこの個人の「目」による一擲が、知を耕し、美を耕し、風土を耕していくのだろうとおもう。
何かを「見る」ということは、それを「読む」ということだ。
何かを「読む」ということは、それをどう「見る」かということなのだ。
だから、本を読む、とかんたんにいうけれど、
わたくしが何かを読むという行為には、人ひとりの信条や、ひいては
世界の魂がかかっているといっても言い過ぎではない。
なぜならば、世界というのは、それを「見る目」によってあらわれるものだとおもうからである。
突き詰めれば、世界とは個のことである。個の「目」による一擲の集成だ。
(まちがっても、そこに全体とか総などというものを想定してはいけない)
その個ひとりひとりの「目」をとおした「読み」が、
ぼくたちに世界を見せてくれるひとつひとつの窓になる。

目利きの店主によって建設されたお店の棚は、たくさんの「読み」でいっぱいなのだ。
こだわりを持ったお店の本の棚を見る楽しさは、
その「読み」をじぶんなりに「読む」という楽しさにあるのだろう。
ぼくたちはおもむろに棚から一冊の本を抜き取り、ページをめくる。
そうして本を「読み」はじめる。
ぼくたちは読めるか?その本のなかにいったい何が書かれてあるのか、その目で読めるか?
その目は何なんだ?その目で何を見る?そこに何が見える?ほんとうにそれが見えたのか?、、
本を読むという行為は、こんなふうに手に汗握るものであってほしい、とおもう。


ところで、今回、店頭用の封筒を持っていかなかったのだが、
「あったほうがいいよ」とのアドバイスをいただき、
折角なのでちょっと遊び心を発揮して、市販の封筒をカスタマイズしてみた。
お客さんは「おまけ」があるとうれしいもの、という言葉にも刺激されて。
蜆TuReには将来的に一服の「気付け薬」のような役目を担ってもらうつもりなので、
ということは、それを包む封筒はどんなものがいいか…あ、そうだ…
お医者さんでくすりを処方してもらうときに貰うくすりの袋みたいなのにしよう
と思いついたのでありました。
ちょうどウチにいい見本があったので、それをマネてつくってみたのがこちら。


封筒のうら面
〝のみぐすり〟をモジって〝よみぐすり〟に
「店主の方へ 処方の仕方はおまかせします」
という説明書きもちゃっかり左上に…


次回の納品から、さっそくためしてみることにしよう。
(レティシア書房さん、こんな〝おまけ〟封筒をお送りいたします)






蜆TuRe@レティシア書房店長日誌より)



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続 工場日記

その一 「痛み」

僧帽筋、脊柱起立筋、左三角筋、左手尺骨三角骨靭帯、胸鎖乳突筋…
これまでに労働をつうじて特に試練をしいられてきた主な部位たち。
なかでも胸鎖乳突筋の痛みには完全に参った。
ある夏の晩、寝ちがえる。首に経験したことのない激痛が走る。
数日前から頸部を中心に体の痛みをおぼえていたのであったが、
そこに、Liquorの過剰投与とその後のまずい体勢での寝入りが引き金となり、
トドメを刺されたかたちである。
首を回せない。寸分動かそうものなら、稲妻が走る。
そうなれば蚊の鳴くような声で泣くしかない。咀嚼もままならない。
患部を揉み揉み、なんとか読書ができるくらいまで回復したその日の晩、ふたたび激痛。
いよいよ万事休すと近くに整体院がないかを調べることに。
調べていくあいだに、寝違えのことがわかってくる。
どうも、寝違えというのは、
腋内側に走っている「腋窩(えきか)神経」が圧迫されて起こるようである。
寝違えて頸部に痛みを感じた多くの人は、首を揉んだり横に曲げて伸ばしたりするが、
これは一番行ってはいけないことなのだそうだ。
理由は、頸部の筋肉はいままさに炎症を起こし圧迫されている状態なのであって、
そこを揉めば圧迫に拍車をかけ、さらなる炎症を引き起こし痛みを悪化させるため、と。
やってはいけないことをやれば、治るものも治らない。
何かいい手はないものだろうかとおもいながらさらに調べていくと、対処法なるものを見つける。
腋窩神経を圧迫から解放してあげる有効な体操。

体操1
1. 背筋をのばし脱力。
2. 痛む側の腕を後方へ引き、少しずつ上げる。
(手首はだらりと垂らす)
2. 上がりきったところで、20秒キープ。腕をゆっくり戻す。(2セット)

体操2
1. 痛む側の手を腰に当てる。
2. 肘を後方へ引く。
3. 引ききったところで、20秒キープ。腕をゆっくり戻す。(2セット)

体操3
1. 痛む側の腕を手のひらを上にして肩の位置まで上げる。
2. 120度の角度で肘を曲げ、そのまま水平に後方へ引く。
(体はひねらず腕だけを後ろへ)
3. 引ききったところで、20秒ほどキープ。腕をゆっくり戻す。(2セット)

実際にやってみると、どうしようもなかった首の痛みが引いた。
ただ、いつあの痛みが再発するとも知れないので、しばらくは用心の日々を送ることに。

映像日記

2月14日 水
非番。復調。寒し。
週末ゴダール。インタビューや批評つまみ読み。ドゥボール。situs状況主義。インタビューは何より興味深い。
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ポルトガルで起きたカーネーション革命を下敷きに、「視線」についての考察が中心を流れている。
タイプライターの手を動きと文章を読む目の動きの類比。
視線を司るものは?「文章」。
画面に映し出されるタイポ文字のカーソルの動き。
文章はそれを読む(見る)視線の前で意志を持って動き、視線を監視している。
視線が文章を追うのではなく、文章が視線を追う。
映像を撮ることも映像を観ることも可能
だが、
そこにあるべき「視線」そのものを描くことは(可能かどうかというより)許されているのか?

「最後に、《俳優と観客の間にある映画》というタイポ文字のタイトルが、
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文字の(カーソルの)動きのほうに?
いずれもそうであってそうでない。
なぜならば、いずれかが司っているということはないから。それらは一貫して司られているといえないか。
物としての文字も文字の動きも作業する手も手を動かす意識や神経伝達の部門も、一貫して。
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今回の蜆TuRe(第七號)は、海と転生というテーマでひとつ書いてみた。
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都民ファースト都民ファーストと東の方からは聞こえてくるが、いやいや地球ファーストだろう。
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酸素をこのむ好気性の細菌との結婚のときをじっと待ち、来たるべき原生動物の誕生にそなえていた。
それから何十億年もたって、真核細胞は植物を生み、動物を生み、生命の一部は海から陸へと上がっていった。
地上では、堅い岩が気の遠くなる時間をかけて砕け、そこに動物微生物の死骸が積もり、やがて豊かな土になった。
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