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冷えサビヰスキー・オン・ザ・ポップ



枯れなくちゃならん、とおもったものである。

いつどこで。
どうしてどうやって。
むう。それはなかなかむつかしい質問というもので、
多分に私の性格と生い立ちにかんけいするはなしではある。
ものごとの原因やそれを生んだきっかけは、ある場面や出来事にあるとはかぎらない。
かぎらないけれども、場面や出来事の影響力は強い。これもまたたしかである。
枯れなくちゃならん。
たとえば、亀戸の小さな河川にかかる桟橋の上を歩くひとりの中年サラリーマンの姿が、
十六、七の私にそうおもわせてくれた。これはたしかだ。
色褪せた皮鞄。少しよれた感じの背広。やや前傾姿勢の歩き方。無言の背中。歩く速度。
私はそこに何を見ただろうか。
じぶんの存在とじぶんを取り巻く環境を、何かしかたのないものとして引き連れて生きるやり方。
ニヒリズムですらない、アンニュイですらない、枯れた精神。
そんなものを見たはずだったろうか。
よいなあ。ああいう大人でなくちゃあな。
そう感じたのだったろうか。
場面…。
そうだそうだ。
おもえば、私に酒と煙草の意味を教えてくれたのは一枚のモノクロ写真だった。
安酒屋のテーブルに座ってくつろいでいるひとりの文士。
テーブルの淵には吸いかけの煙草がオンしてあって、手元にはコップ酒。
その写真を見た私は、そくざに、ああこうでなくちゃならんとおもった。
私にとっての酒と煙草をはじめるべき理由が、そのなかに全部あるように感じられた。
(それが太宰であるのは知っていたが、あとでたしかめたら若松屋という鰻屋だった)
つまり、そうなのだ。
そうやって、たまたま目の当たりにしたひとつの像が、
私という存在をこれからどこへどう向かわせていけばよいかの方向づけを示唆するものになり得る。
やがて、その方向性が定着してじぶんのなかで一定の価値を持つようになると、
いつしかじぶんからそれに従って生きるようになっていく。
何を見たか、何を聞いたか。
そこのちがいで、ひとの行く末なんてぜんぜんちがうものになる。
たとえば、スワンベルクの絵を見たか見なかったかで、ひとの一生が左右されるとしたら?
かりにそういう因果があるとして、それを不公平だとおもうかどうか。
私は必ずしも不公平だとはおもわない。
もしあるひとがスワンベルクの絵を見ないで一生を終えたとしても、
それはそのひとがそれを見る必要がなかったか、
見るチャンスを得るまでにはいたらなかったという程度のことに過ぎないのではないか。
見るも見ないも、どっちにせよそれはひとつの事故なのだ。
偶然でも必然でもない。
ただ上から降ってきたのだ。
つまりは偶然の必然だ。
あるひとはそれを見て、あるひとはそれを見なかった。たしかなのは、そのちがいだけ。
天の配剤というのは、そういうものではないか。

私のところには、桟橋の中年サラリーマンの像が降り、酒場の文士の像が降ってきた。

その像は、別に、私の力で降らせたものでもなんでもない。
私のもとに天が局地的に降らせたものでもない。
そういうものは、いたるところに降っているもんだとおもうほうがよい。とおもう。
だから、地球上のどこかに、私と同じものに降られたひとがあってもなにもおかしくはないのだ。
そこに、私の感性とか、私たちの運命とかを持ち出すのはとてもつまらないことだ。
感性とか運命というものは、他者を巻き込む作用であって、私の存立の外にあるとおもうためである。


話をもどそう。いや、もどさなくてもよいのか…。でも、もどそう。
ともかく、枯れなくちゃいかん、酒も煙草もやらなくちゃいかん、と
こう私はおもってしまったのだ、あのときから。
それをシューキョーみたいにシンコーして、
そのシンコー度合いを詰めていくほうにじぶんを細く追い込んできたようなところがある。
精神のはなしだ。
琳派より、雪舟。本阿弥光悦より、利休。定家より、心敬。
寒くやせたる…。あの心敬の冷えサビを愛するしかないからだから、じぶんはもう離れられそうにない。
いや、もう二度と離れることはないだろう。
そうおもっていた。

が。


どうもこのごろおかしいのである。
ああ水色の雨〜とか鼻唄でうたったりしている。
ジッタリンジンがいいとかいっている。
汽水空港のモリテツヤさんのツイートを追いかけている(おもしろくてしかたない)。
ハートがちょっとポップになっているのだ。
どうやら、ぼくの冷えサビ感性はかたむきつつあるらしい。
雪舟より、琳派?利休より、光悦?心敬より、定家?かなあ?でも、いいかなあ?
という感じになってきている。
それが証拠に、このごろ、やたらと金ピカに反応する。
むかしは、金ピカなんて大きらいだった。
金ピカの仏像なんてサイアクだとおもっていた。
それが「金ピカ、サイコー」なのである。
とにかく、へんなのだ。
どうかしてしまったのだ。
どうしてそうなったか、私は知っている。
見てしまったからだ。
TVで。
降ってきたのだ。
なにが?
ニキ・ド・サンファルの「ブッダ」が。
あれを見てしまってから、
かたむきにグンと拍車がかかったような気がしてならない。
ニキの「ブッダ」。
あれは、ショックだった。
まったく、どっかーん!であった。
太陽の塔なんか吹き飛んでしまうくらいの、爆発だ。モーレツだ。チョーゼツだ。
そう、ぼくはそこに、チョーゼツ・ポップを見たのである。







TVでは、上からライトを浴びてキラキラ光っていらっしゃった。
ミラーボール・ブッダである。
私はおもわず叫んでしまった。うげー!って。
まさに岡本太郎のいうところの「なんだこれは!?」だった。
そして、どうせ何かやるならば、ここまでいかないとおもろくない。ともおもった。


私のなかがポップ化している。
私のなかでポップ化がすすんでいる。
同じことか。ただ、それで冷えサビが消えてしまったわけではない。
冷えサビの精神にポップなハートが潜り込んできたといえばよいだろうか。
つまり、冷えサビをポップで割っている状態である。
ヰスキーを氷で割るように。
冷えサビヰスキー・オン・ザ・ポップ。

ようやくタイトルにつながりました。
お後がよろしいようで。




追記
蜆TuRe第二号がようやく大詰めで、年内ぎりぎり間に合いそうです。
できるデザイナーさんの仕事はちがいます。私は、毎度、感動しております。
毎回ぼくがジユーにつくったグラフィック素材を、デザイナーさんがキレーに収めてくださるわけですが、
創刊号につづいて今回もデザイナー泣かせの素材だったご様子、、。
さて、今号の表紙。
創刊号は細い線のイラストでしたが、こんどはちょっとしたコラージュをやってみました。
これもポップ化の影響、か。
さ、さ、さ、さ、まーまー、どうぞお楽しみに。




コメント

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