じぶんのことをなかなか明かそうとしないわりに、やたらとじぶん語りが多い。
こういう面倒な習性が私にはある。
私はそれを認める。
そして、そのことを(このごろは)心底イヤだとおもっている。
ある友人は私にこういった。
どうせオマエは、ひとにべたべた触ってくるくせに、ひとを近づけないスタンスなんだろ。
こんな図星の指摘を受けると、
私のねじまがったハートもさすがにストレートにグサリとやられる。
そうして、ああ何てことだ!これが私なのか!といってふにゃふにゃにぐにゃぐにゃに落ち込むのだ。
もう少し面の皮がぶ厚かったら私の生き方もぐんと変わっただろうが、
私はとにかく M なので、つまりなにかと受け身すぎるところがあるので、
ふにゃふにゃのぐにゃぐにゃになりやすい。
それで大いにバカみたいにハンセーする。
ハンセーばかりしているうちに、からだのなかにポコンと意味深な回路が開けて、
その穴のなかへふか〜くふかくもぐっていき、パタンとじぶんを閉じる。
そうやって、開いて閉じてをくり返していくあいだに、何重もの入れ子構造が出来上がる。
私はその入れ子構造のなかにみずからを軟禁して、狭っくるしい!となげいている。
これが私というひとつの現象である。
と、誰にもきかれていないのに、またじぶんのことをだらだらと話している。
これも私というひとつの現象である。
私はこうして 443 Note(シジミノート)をつける。
これまでに蜆TuReを一度でも手にとってくれた人に向けて、
「いったいどんなヤツが発行している冊子なのか」を小出しに伝えてみるために。
私は蜆TuReを仕事だとおもって取り組んでいる。
儲けようとはおもわないが、私一人分の食い扶持の助けくらいにはしたいと考えている。
これは、「オレは趣味なんかで物書きせんぞ」という宣言でもある。
趣味ではダメだ。夢中になれても、必死にはなれない。
やるからには魂胆がある。魂魄もある。
私が私のなかに用意した個人的な魂胆と魂魄を発揮するために、私は個人的にこの蜆TuReをはじめたわけだ。
漕ぎ出した舟は、漕ぎつづけるしかない。
やみくもに漕いでいればいいかといったら、そんなことはない。
これは仕事である。
個人的な魂胆と魂魄を発揮するためには、「方法」が必要だ。
発揮の場はどこか?それは蜆TuReの「誌面」においてである。
そこには「読者」という名のオーディエンスがいる。
「誌面」において、何が発揮されているのかがオーディエンスに伝わらなければ意味がない。
だから、伝えるための「方法」もまた必要になる。
「方法」を用いて、「誌面」という場で、個人的な魂胆を発揮しその内容を「読者」へ向けて伝えること。
これが蜆TuReにおける私の仕事のなかみである。
まどろっこしいことをいってしまっただろうか、私は。
性格は顔にも出るし、文にも出るものだ。しかたない。がんばろう。
私というひとつの現象を、遠心分離機にかけてどんどんセントリフュージしていけばよい。
私という中心から私を離してやることだ。
そうして、私のエクリチュールが、いったいどんな成分で出来ていて、どんな密度で出来ているのかを抽出し、検出し、
この目でよくよく観察してみることだ。
あたらしいエクリチュールのための「方法」を産出するためには、
まずエクリチュールそのものをよく観察することが必要だろう。
観察したら、矢を放て(書け!)。矢を放っては観察しろ。
読者のハートに当たり損ねたら、何がいけないかを考えろ。数多くの先人に学べ。
そうするうちに、イヤでも「方法」が見つかるだろう。
大きな仕事だ。
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