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1月, 2016の投稿を表示しています

戯(ざ)れ言と書いてブルースと読みます

早熟なひとには、あこがれる。
じぶんがそうではないからだ。
早熟のひとは、きれいだ。
ほかのひとにはない目や耳や言葉を持っている。
ただ、早熟の花は、あまりにはやくひらいてしまうので、椿のように咲いたまま首からぼてんと落っこちる。
そこもまた、きれいでいい。
ばっと咲かせて、さっとおわって、つぎの精神にでも引っ越していくくらいがちょうどいい。
すっとあらわれて、さっと去る。これがいちばんだ。長居はキンモツである。

くらべて、このぼくはといえば、
まー、未練たらたらで、からっとせずにじめっとしていて、ちっともきれいぢゃない。
そうかといって、見栄をはるのにも、もうつかれてしまった。
かっこつかないのに、かっこつけるのは、やめなはれ、なのである。
ぶざまで、かっこわるいままで、あなたさまの前にいさせてもらいます、というわけなのである。
こどもみたいに鼻ちょうちんぶらさげて、あるいているのである(ほとんど外に出ないけど)。

じぶんでじぶんに降参し、降参したそいつをさっさと追い出して、つぎに追い出すじぶんをたずねにいく。
じぶんなんてものは、このくらいのいい加減さでつき合ってやるのが、ちょうどいい。

シュギシュチョーなんて、いらねーのである。
持っていてもいいが、いちいち、いわねーのである。
そういうものは、暮らしのなかで発揮してやるものですね。
あるいはそれを仕事とよんでみてもいいでしょう。
稼ぎのはなしではありません。
宵越しのシュギシュチョーなんか、いらんのです。
それだけを切り離して、ブン回すから、おかしなことになる。やかましくもなる。

ちがうものには、ちがうとゆいたいが、
ゆるせぬものには、ゆるせぬとゆいたいが、
ゆってるぼくが、万年鼻たれ小僧なのだから、そこんところよろしく。

なにがいいたかったかといいますと、
このぼくは、早熟のまぎゃくをいっているということでして。
まア、70くらいまで生き延びれば、ようやく花のひとつも咲かせるかもしれぬが、
それまでは、ああでもねーこうでもねーといいながら、鼻水たらして、足もとよく見て、
いろいろやっていくと、そういうわけなのであります。








もツと、フアジイに

古い岩波文庫にはパラフィン紙がついていて、
いまごろぢあ、たいていは赤茶けてぱりツと乾いているのであるが、
あれがぼくはどうにも好きなんで、
かさかさ立てるあの音も、
電気がぱちぱちいうときの音や枯葉のこすれる音とおなじほどに、
ぼそぼそしていて、フアジイ fuzzy で、
こまかくキラキラしていて、とてもきれいだ
ぼくはけツして読書家とよべたにんげんではないが、
あの炭化水素でできた石蝋のうすさだけで、
本のりんかくに触れられた気になり、
それだけで、
やツぱり本のそばにいたいとおもツてしまうのである

それが、ぶあついビニイルのカバアなんかでやられたときにや、
本がぼくの目の前でりんかくをうしなツてしまうから、
辛抱たまらん気持ちになる

フアジイといえば、
ぼくはあの骨みたいにかるいチヨオクが木箱にあたる音が大好きだツた
かここんと鳴るあの音を見つけたときは、うれしかツた、笑ツてしまツた
ぼくの文机の抽斗には、
白いチヨオクが一本だけ箱のなかに入ツているのだが、
たまにそれを取り出してながめていると、
そのかるさのなかへからだごと引ツ越してしまおうかという気になツてくる
炭酸カルシウム、、硝酸カルシウム、、のうすさ かるさよ 
うれしさよ

白秋も朔太郎も、中也も、澁澤さんも、足穂さんも、賢治も、
みんなあのうすさとかるさの住人だツたろう
ありがとう
あなたたちのおかげで、ぼくもいまそこに住んでいられる

つらつらとぼくはなにをこうしてやツているのだろう
いまこうして書きながら、なんだか
行き場のなかツた、おおいそぎに死んでしまいたかツた
十九や二十一、二のころのぼくの書き方に似ていると思う
そうかそうか、あのころの手も、苦しまぎれのつもりであれ
なにかを書こうとしていたんだツけかと思う


それだツて、フアジイのしわざにちがいあるまい
なにもかもが
フアジイのあいまでゆれている…
それを見ていてあげなくては…
だから…
もツと、フアジイに…


なるほど、足穂の「薄板界」
        …この世界は無数の薄板の重なりによって構成されている…

Julian Babourの時間感覚
        …時間は存在しない…存在するのはコマ止の静止画像のような空間…
        …膨大なスナップ写真の集合のようなもの…

一枚一枚のうすさのなかに、みんな、いツしゆん、いツしゆ…

つれづれなるまま、シジミどもの近況

蜆TuRe第二號、昨年の12月29日に刷り上がって、
中崎町の印刷屋にいって、受け取って、
それを包みのままボコんとガラガラに入れて転がして、
行列の出来た郵便局の、隅っこのほうで発送の手筈をととのえて、
そのまま文の里の居留守文庫までいって、
居留守文庫は恒例の絵本市で大にぎわいで、
子どもと大人たちのコミュニティラウンジのようになった店内で、
おひらきになるのを待ち、
しずまったところで、
お店の岸昆さんに第二號を10部お渡しし、
創刊號は3冊売れていると聞き、
そのうちの1冊はぼくのことを知っている人(絵本市の主催者)で、
あとの2冊はぼくのことを知らないお客さんであると知り、
そんなやりとりをして、年が明け、
三が日が過ぎて、
レティシア書房さんからちょっと前に紹介していただいた
神戸にあるトンカ書店さんと1003(センサン、読みます)さんに
お店に置いてほしいですと、また(電子のだけど)ラブレターを送り、
やがてお返事がとどき、
トンカさんにも1003さんにも、
どちらも置いてくださるといってもらえ、よろこび、
紹介してくれたレティシアさんにもお礼をいっておこうとおもい、
(電子のだけど)レターを出し、
そしてすっかり遅くなってしまったけれど、
ようやくレティシアさんのある京都まで納品とご挨拶にいき、
店主の小西さんがうれしそうに
「(創刊號)2冊売れましたよ」
と教えてくれ、よろこび、
「(お客さんの)二人とも、封筒が面白い、っていって買っていかれましたよ」
と〝種明かし〟をしてくれ、
封筒に入れたらいいよとアドバイスをくれたのは小西さんだったので、
さすがである、とおもい、
「蜆TuReの売り行きは、あのオモシロ封筒が、ひとつ鍵を握っているのか」
とおもい、
では、ナカミは?
とツッコミを入れるのだが、
ゼイタクをヌカセ、
手にとってもらえることのヨロコビをカミシメロイ
とツッコミを入れなおし、
「もっと(お店に)置いてもらえるといいですね。あそこなんかいいのではないかな」
と小西さんと奥様が、置いてくれそうなお店を教えてくれて、
そんなことをしてると、常連さんがやってきて、
シジミ置ける店どこだ問題、に
そのお客さんも乗っかってくださり、西荻のほにゃららなんかどう?
などと、ご親切にインフォメイションをくださり、
小西さんはそれを紙にメモってわた…

ブックとニッチ

本は、ひとつの小箱のようであり、袋のようでもある。
そのなかにじぶんを入れて持ち歩くことだってできる。
そう、稲垣足穂の『一千一秒物語』に出てくるお月様のように。

ある夕方 お月様がポケットの中へ自分を入れて歩いていた 「ポケットの中の月」

むかし本の仕事をしていたとき、
そこが寺系の本をあつかうところだったこともあずかってか、
本が棺におもえたこともあった。
冬の底冷えする書庫のなかで白い息を吐きながら、
ぼくは、薄氷のような死のニュアンスに手を触れていた。
死、という言葉にぴったり心がよりそうようになったのも、
モーリスブランショを座右の人にすることに決めたのも、ちょうどそのころだった。

本のなかには無数の過去が閉まってある。
本をひらきページをめくると、過去は今ここに流れ出してくる。
本を閉じれば、ふたたび過去へもどっていく。
過去はしずかだ。
風通しのよい密室のなかで、ぼくはその過去と無言の対話をする。
先人たちの沈黙する墓石の前にたたずむときのように(本は墓石に似ている)。
対話は本を手に取るところからはじまり、本から手を離したところでおわる。
過去との対話は、いつからでもはじめられ、いつでもおえられる。
本には、はじまりとおわりがあるが、本との関係には、はじまりもおわりもない。
それは、むかしからずっとそこにあるような、どこにもはじめからなかったような、
どこかの隙間にひょいと生じた時空のポケットのようなものかもしれない。

そういう本とぼくとの関係には、ある意味と効能とが含まれているようにおもう。
食事をとるという行為に、意味と効能があるのと同じように。
仮に今、この意味と効能を、セラピーということばに置き換えてみることにしよう。
「言語芸術を用いてセラピーができないものだろうか」
蜆TuRe創刊号のはじめに、ぼくはこう書いた。
このごく個人的な文芸誌を発行する趣旨が、
セラピーという方面を向いていることを明らかにしたかったからである。
では、セラピーってなんだろう?どんなものだろう?
あらためてそうおもい、考えてみる。
今もし、つたないことばであらわすとしたら、
セラピーというのは、
ひとの生命や精神が満ちていくときの状態をつくりだすもの、といえるのではないか。
そのサイズは小さくていい。
ある個人のなかにある、個々の、そのまた小さな個々のなにかに…