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ブックとニッチ




本は、ひとつの小箱のようであり、袋のようでもある。
そのなかにじぶんを入れて持ち歩くことだってできる。
そう、稲垣足穂の『一千一秒物語』に出てくるお月様のように。

ある夕方 お月様がポケットの中へ自分を入れて歩いていた 「ポケットの中の月」

むかし本の仕事をしていたとき、
そこが寺系の本をあつかうところだったこともあずかってか、
本が棺におもえたこともあった。
冬の底冷えする書庫のなかで白い息を吐きながら、
ぼくは、薄氷のような死のニュアンスに手を触れていた。
死、という言葉にぴったり心がよりそうようになったのも、
モーリスブランショを座右の人にすることに決めたのも、ちょうどそのころだった。

本のなかには無数の過去が閉まってある。
本をひらきページをめくると、過去は今ここに流れ出してくる。
本を閉じれば、ふたたび過去へもどっていく。
過去はしずかだ。
風通しのよい密室のなかで、ぼくはその過去と無言の対話をする。
先人たちの沈黙する墓石の前にたたずむときのように(本は墓石に似ている)。
対話は本を手に取るところからはじまり、本から手を離したところでおわる。
過去との対話は、いつからでもはじめられ、いつでもおえられる。
本には、はじまりとおわりがあるが、本との関係には、はじまりもおわりもない。
それは、むかしからずっとそこにあるような、どこにもはじめからなかったような、
どこかの隙間にひょいと生じた時空のポケットのようなものかもしれない。

そういう本とぼくとの関係には、ある意味と効能とが含まれているようにおもう。
食事をとるという行為に、意味と効能があるのと同じように。
仮に今、この意味と効能を、セラピーということばに置き換えてみることにしよう。
「言語芸術を用いてセラピーができないものだろうか」
蜆TuRe創刊号のはじめに、ぼくはこう書いた。
このごく個人的な文芸誌を発行する趣旨が、
セラピーという方面を向いていることを明らかにしたかったからである。
では、セラピーってなんだろう?どんなものだろう?
あらためてそうおもい、考えてみる。
今もし、つたないことばであらわすとしたら、
セラピーというのは、
ひとの生命や精神が満ちていくときの状態をつくりだすもの、といえるのではないか。
そのサイズは小さくていい。
ある個人のなかにある、個々の、そのまた小さな個々のなにかに触れ得るようなサイズでいい。
みんながしあわせになれますように、というような大きなサイズを、ぼくは好まないし信じない。
ラブアンドピースとか、スローライフとか、ミニマリズムとかいう、
横並び式の、暗黙に容易に了解されてしまうような、同調圧臭さがぷんぷんする発想には、
なるべくかかわりたくないというのが信条である。
もちろん、そういうところにも、ひとが生きていくうえでの意味や効能はあるのだけれども、
ぼく個人は、そういうところからは、すすんで外れていたい。
できるだけニッチなほうへ向けて。
もっと小さく、こまかくこまかく、生命や精神の隙間に分け入ってみたい。
そこに、なにか、〝共通の〟あかりが見つけられるかもしれない。
そう、〝共通の〟。
感覚としては、そういうふうな。


追記

足穂さんの「ポケットの中の月」は、こうつづく。せっかくなので、はじめからおわりまでご紹介。

ある夕方 お月様がポケットの中へ自分を入れて歩いていた 坂道で靴のひもがとけた 
結ぼうとしてうつむくとポケットからお月様がころがり出て 俄雨に濡れたアスファルトの上を 
ころころころころ どこまでもころがっていった お月様は追っかけたが 
お月様は加速度でころんでゆくので お月様とお月様との間隔が次第に遠くなった 
こうしてお月様はズーと下方の青い靄の中へ自分を見失ってしまった

おもうに、このセンスが、ぼくにとっては、すでにひとつのセラピーになっているのかしら。




コメント

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映像日記

2月14日 水
非番。復調。寒し。
週末ゴダール。インタビューや批評つまみ読み。ドゥボール。situs状況主義。インタビューは何より興味深い。
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「最後に、《俳優と観客の間にある映画》というタイポ文字のタイトルが、
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作業や現象が、それが可能になっていく(展開していく)過程で一貫して何かに司られているとするならば、
はじめに「受動ありき」ということがいえるのである。
能動は受動に後押しされていると(呼吸についておもいをめぐらしてみる。呼吸はまず「吐く」ありき。

infra-mince考/『マルセル・デュシャン、メモ』No.10をめぐって

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「いま、僕は諸君に向かってこうやってマイクでしゃべってます。僕の後ろには、ホワイトボードがあって、そこには
何か文字が書かれてる。で、ここで僕がこう、ホワイトボードのほうを振り返る。そうすると、諸君のほうを向いて
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いい?そのときに、喋っている僕と、何か書こうとして振り向くホワイトボードとの〝間〟に、何があるか、ということ
なんです。いい?そこを知りたいわけです。僕とホワイトボードの〝間〟がどうなっているか。」

数多く聞いた興味深い話のなかで、この話はいまでも私の記憶のなかに視覚情報と一緒に残っている。
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私がここで、わざわざこの〝間〟という言葉を引き合いに出すのは、
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infra-mince/アンフラマンス
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 この意味を的確に言いあらわす日本語をうまく思いつかないので、この訳稿では《極薄》という語をあてているが、
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蜆がゆく! たけうま書房さん(横浜)/汽水空港さん(鳥取)/古本 冬營舎さん(島根)

ただいま蜆は、たびかさなる細胞分裂をくりかえし、
じょじょに〝二号〟になろうとしておるところであります。


だいぶ間があいてしまいましたが、
あらたに3つの店舗で蜆TuReを取り扱っていただけることになりました。

ひとつは、横浜市中区にありますたけうま書房さん。
創刊号に掲載した短編が小学校をぶたいにした話でしたので、
ぜひ横浜の(小生はハマっ子でした)お店にも、ということで置いていただいています。

それから、鳥取県松崎の東郷池のほとりにたたずむ汽水空港さん。
ぼくは、ここの店主のモリテツヤさんのファンになりました。
踏み込んでいえば、いろいろ影響されたい(とおもわせてくれる)ひと。
モリさんは、ちょっと抜けてる、つまり、
感性がズ抜けている、あるいはひょうげているといったらいいでしょうか。
そういう感じが個人的にいたします。

そしてそして、島根におわす古本 冬營舎さん。
ぼくがいちばん置いてもらえたらうれしいのになあ、とおもっていたお店であります。
なぜそんなにうれしいか?
冬營舎さんは、シジミの日本一の産地であるあの宍道湖をのぞむお店なんですね。
もちろんヤマトシジミです。
いわばシジミの古里、いやシジミのトポスといっていいすぎることはありません。
シジミの縁。に感無量。
こちらのページでさっそくご案内くださっていました。店主さまありがとうございます)

前にもぼくは書きましたが、シジミがとれるのは汽水域です。
汽水域。あれちょっと待てよとおもい、東郷池は汽水域なのではないかと調べてみると、、
やはり。東郷池は汽水湖でした。
あ!だから、「汽水空港」という名前なんだ!とそれで気がつく鈍感なぼくです。
モリさんにおたずねしたら、東郷池でもシジミがとれるとのことでした。
なんと!すごいすごい。
日本列島ひろしといえど、シジミのとれる地域はかぎられているんですし、
まして、古書店さんがある地域はもっとかぎられているわけですから、
んー、、心がおどります。

では、たけうま書房さんはどうだろう、、とためしに調べてみますと、
ここがなんと大岡川と横浜港とが合流する汽水域に近かったのであります。


シジミがシジミをさそい、蜆TuReは日本列島を縦断していく、、と。
蜆よ、ゆけ〜!