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つれづれなるまま、シジミどもの近況




蜆TuRe第二號、昨年の12月29日に刷り上がって、
中崎町の印刷屋にいって、受け取って、
それを包みのままボコんとガラガラに入れて転がして、
行列の出来た郵便局の、隅っこのほうで発送の手筈をととのえて、
そのまま文の里の居留守文庫までいって、
居留守文庫は恒例の絵本市で大にぎわいで、
子どもと大人たちのコミュニティラウンジのようになった店内で、
おひらきになるのを待ち、
しずまったところで、
お店の岸昆さんに第二號を10部お渡しし、
創刊號は3冊売れていると聞き、
そのうちの1冊はぼくのことを知っている人(絵本市の主催者)で、
あとの2冊はぼくのことを知らないお客さんであると知り、
そんなやりとりをして、年が明け、
三が日が過ぎて、
レティシア書房さんからちょっと前に紹介していただいた
神戸にあるトンカ書店さんと1003(センサン、読みます)さんに
お店に置いてほしいですと、また(電子のだけど)ラブレターを送り、
やがてお返事がとどき、
トンカさんにも1003さんにも、
どちらも置いてくださるといってもらえ、よろこび、
紹介してくれたレティシアさんにもお礼をいっておこうとおもい、
(電子のだけど)レターを出し、
そしてすっかり遅くなってしまったけれど、
ようやくレティシアさんのある京都まで納品とご挨拶にいき、
店主の小西さんがうれしそうに
「(創刊號)2冊売れましたよ」
と教えてくれ、よろこび、
「(お客さんの)二人とも、封筒が面白い、っていって買っていかれましたよ」
と〝種明かし〟をしてくれ、
封筒に入れたらいいよとアドバイスをくれたのは小西さんだったので、
さすがである、とおもい、
「蜆TuReの売り行きは、あのオモシロ封筒が、ひとつ鍵を握っているのか」
とおもい、
では、ナカミは?
とツッコミを入れるのだが、
ゼイタクをヌカセ、
手にとってもらえることのヨロコビをカミシメロイ
とツッコミを入れなおし、
「もっと(お店に)置いてもらえるといいですね。あそこなんかいいのではないかな」
と小西さんと奥様が、置いてくれそうなお店を教えてくれて、
そんなことをしてると、常連さんがやってきて、
シジミ置ける店どこだ問題、に
そのお客さんも乗っかってくださり、西荻のほにゃららなんかどう?
などと、ご親切にインフォメイションをくださり、
小西さんはそれを紙にメモってわたしてくださり、
そうしてレティシアさんにシジミ二號をたくし、
どうかシジミをよろしくお願いします、といって
おいとまし、

帰ってきて、
地元のblackbird booksさんに「あすおじゃまいたします」とレターを送り、
ついでに(というか、もやあんと思いついたのですが)
「ゆうじんがけっこんするのでなにかささやかな本ありませんか」と
めんどうなお願いをくっつけて、
次の日のお昼にblackbird booksにいくと、
店主の吉川さんは、
絵本とナヲコーラとアラーキーの3冊をピックアップしてくれていて、
ちょっと逡巡して、きゅうに、あそうだ、と腑に落ちて、
『東京は、秋』というアラーキーと奥さんの陽子さんの共著の本をもとめ、
そうしてblackbird booksさんにシジミ二號をたくし、
どうかシジミをよろしくお願いします、といって
おいとまし、

そして、
今日にいたる。


汽水空港のモリテツヤさんが、二號をフィーチャーしてくれています。
サンキュウベリマッチであります。
「アナーキーな文芸誌!今回も「よみぐすり」としてイカした封筒に入ってます。」
というコメントとともに。




blackbird booksさんも、アップしてくれました。
どうもありがとうございます。
「蜆さんの書く風刺とユーモアの効いた短編とエッセイ」
というコメントとともに。


兵庫の高砂商店街の 本と。さんも、
ひきつづき、どうもありがとうございます。
(いつも感想も送ってくださる楠本さん、どうもありがとうございます)
創刊號、二號、と仲良く並んでおります。ごきげんよう!シジミども。











コメント

このブログの人気の投稿

映像日記

2月14日 水
非番。復調。寒し。
週末ゴダール。インタビューや批評つまみ読み。ドゥボール。situs状況主義。インタビューは何より興味深い。
アンヌ・マリー=ミエヴィルとの共作『Comment ça va?』
ポルトガルで起きたカーネーション革命を下敷きに、「視線」についての考察が中心を流れている。
タイプライターの手を動きと文章を読む目の動きの類比。
視線を司るものは?「文章」。
画面に映し出されるタイポ文字のカーソルの動き。
文章はそれを読む(見る)視線の前で意志を持って動き、視線を監視している。
視線が文章を追うのではなく、文章が視線を追う。
映像を撮ることも映像を観ることも可能
だが、
そこにあるべき「視線」そのものを描くことは(可能かどうかというより)許されているのか?

「最後に、《俳優と観客の間にある映画》というタイポ文字のタイトルが、
 冒頭の《能動と受動の間にある映画》に打ち消された後消去され、
 カーソルだけが空しく動き続けて映画は終わる」(E/M Books 2)

文字を打つ作業と打たれた文字がそこに表象として写し出される現象とのあいだにあるものについて。
「文字を打つという作業」が、打つ人とは別の主体性で、何か別の作業を行っているという仮説に立って。
思考というものがどこから来て、その思考がどのように表象化するのか、
どのようにそれが可能なのかということについての考察へ。
司るものがあるとして。
それは打つ人の内部に?写し出される文字の側に?あるいは作業をする手に?
文字の(カーソルの)動きのほうに?
いずれもそうであってそうでない。
なぜならば、いずれかが司っているということはないから。それらは一貫して司られているといえないか。
物としての文字も文字の動きも作業する手も手を動かす意識や神経伝達の部門も、一貫して。
では何によって司られる?
その「何によって(あるいは、どうやって)」を探究する考察の上に哲学があり、
その探究の影響の上に心理学があり、その探究の質的転移(表象化)の上に芸術がある。
作業や現象が、それが可能になっていく(展開していく)過程で一貫して何かに司られているとするならば、
はじめに「受動ありき」ということがいえるのである。
能動は受動に後押しされていると(呼吸についておもいをめぐらしてみる。呼吸はまず「吐く」ありき。

infra-mince考/『マルセル・デュシャン、メモ』No.10をめぐって

Matsuoka Seigow氏が、あるとき、少人数を対象に行った講習会の場で、こんなことをお話しされた。

「いま、僕は諸君に向かってこうやってマイクでしゃべってます。僕の後ろには、ホワイトボードがあって、そこには
何か文字が書かれてる。で、ここで僕がこう、ホワイトボードのほうを振り返る。そうすると、諸君のほうを向いて
喋っている僕は、ホワイトボートのほうへ体を向ける僕へ移っていく、入れ替わっていくわけですね。そのときに、
いい?そのときに、喋っている僕と、何か書こうとして振り向くホワイトボードとの〝間〟に、何があるか、ということ
なんです。いい?そこを知りたいわけです。僕とホワイトボードの〝間〟がどうなっているか。」

数多く聞いた興味深い話のなかで、この話はいまでも私の記憶のなかに視覚情報と一緒に残っている。
「間 あいだ」というのは、Seigow氏がとても重要視している見方で、精神科医であり哲学者の木村敏さんも、
この言葉を好んで使われている。私は、あまりに頻繁にこの言葉が使われている場面に触れすぎていたのと、
あまりに簡単に使えてしまう言葉であると思っていたこともあって、意図的に用いないようにしていた。
Seigow氏が、この言葉を通して、微妙きわまりないことを説明しようとしているのは、感覚的にわかっていた。
表現へ向かう私の動機が、そういう微妙きわまりない方面に隣接しているという自覚もあった。
だから、なおのこと、言語化をする手前で据え置きしたいという気持ちがあったのである。
分かったようなつもりで口にしたくなかったのだと思う。


私がここで、わざわざこの〝間〟という言葉を引き合いに出すのは、
マルセルデュシャン(Marcel Duchamp)が残した infra-mince という暗号のような造語について、
何かを言わなければならないと思ったためである。

infra-mince/アンフラマンス
(infra-:「下部、下方」の意をあらわす接頭辞 mince:「薄い」)

岩佐鉄男氏によって、「極薄」と訳されたM.デュシャンの物の見方である。
訳者の岩佐氏は次のように言及している。

 この意味を的確に言いあらわす日本語をうまく思いつかないので、この訳稿では《極薄》という語をあてているが、
 たんに「極めて薄い」というのではなく、ちょうど赤外線infrarou…

蜆がゆく! たけうま書房さん(横浜)/汽水空港さん(鳥取)/古本 冬營舎さん(島根)

ただいま蜆は、たびかさなる細胞分裂をくりかえし、
じょじょに〝二号〟になろうとしておるところであります。


だいぶ間があいてしまいましたが、
あらたに3つの店舗で蜆TuReを取り扱っていただけることになりました。

ひとつは、横浜市中区にありますたけうま書房さん。
創刊号に掲載した短編が小学校をぶたいにした話でしたので、
ぜひ横浜の(小生はハマっ子でした)お店にも、ということで置いていただいています。

それから、鳥取県松崎の東郷池のほとりにたたずむ汽水空港さん。
ぼくは、ここの店主のモリテツヤさんのファンになりました。
踏み込んでいえば、いろいろ影響されたい(とおもわせてくれる)ひと。
モリさんは、ちょっと抜けてる、つまり、
感性がズ抜けている、あるいはひょうげているといったらいいでしょうか。
そういう感じが個人的にいたします。

そしてそして、島根におわす古本 冬營舎さん。
ぼくがいちばん置いてもらえたらうれしいのになあ、とおもっていたお店であります。
なぜそんなにうれしいか?
冬營舎さんは、シジミの日本一の産地であるあの宍道湖をのぞむお店なんですね。
もちろんヤマトシジミです。
いわばシジミの古里、いやシジミのトポスといっていいすぎることはありません。
シジミの縁。に感無量。
こちらのページでさっそくご案内くださっていました。店主さまありがとうございます)

前にもぼくは書きましたが、シジミがとれるのは汽水域です。
汽水域。あれちょっと待てよとおもい、東郷池は汽水域なのではないかと調べてみると、、
やはり。東郷池は汽水湖でした。
あ!だから、「汽水空港」という名前なんだ!とそれで気がつく鈍感なぼくです。
モリさんにおたずねしたら、東郷池でもシジミがとれるとのことでした。
なんと!すごいすごい。
日本列島ひろしといえど、シジミのとれる地域はかぎられているんですし、
まして、古書店さんがある地域はもっとかぎられているわけですから、
んー、、心がおどります。

では、たけうま書房さんはどうだろう、、とためしに調べてみますと、
ここがなんと大岡川と横浜港とが合流する汽水域に近かったのであります。


シジミがシジミをさそい、蜆TuReは日本列島を縦断していく、、と。
蜆よ、ゆけ〜!