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元町の1003(センサン)とキザなM氏のはなし




本のカイシャをやめ、あたらしいカイシャにつとめ、ケッコンし、
こないだケッコンシキをあげたばかりの友人M氏と会う。
M氏は、どこか、晴れときどき曇りのような、疲れの抜けない顔をしていた。
聞くと、その日は昼から下界へくり出し、長い散歩をしていたそうである。
すでに、一杯ひっかけてきたらしい。

蜆TuReの新しい号が出ると、一献の口実ができる。
また出たので、といって、約束をとりつけ、会えばしみじみ訥々と(ときに陽気に)やる。
あるいは、また成果物が出来たので(小説のこと)、とかいいながら。

M氏は無類の本好きで、ぼくが話に出す〝本絡み〟のことがらは、たいてい彼の射程範囲に入っていて、
ひとつなにかを話すと、ぼくにとって未知なことがらまで芋づる式に引っぱり出してきてくれる。
まさに、打てば響く人である。
(側から聞けば、たいがいマニアックな話題ではあろうけれど。それが何か…?)
彼とは、本のカイシャでいっしょに労働した。彼は新卒からずっとそのカイシャではたらき、ぼくは中途で入った。
彼の仕事ぶりは、いつも周りのみんなを驚かせ、
ある同僚は「Mくんはひとりだけ銀河系で仕事をしている」といって、ため息をついていた。
すばらしい比喩だ。ため息をつく理由は、わかる。

M氏の仕事ぶりのことは、さておいて。
ぼくとM氏を「一杯やりましょう」のあいだがらにしているのは、まず、本であろうから、
ま、だから、その、本のことを。
本のカイシャと書いたが、
本のカイシャだからといって、みんな本好きとは限らない。
本好きだからといって、たがいに気が合うとも限らない。本の何たるかを語り合えるとも限らない。
本といっても、ビジネス書から歴史もの、ノンフィクションからSFまでいろいろある。
まして、文学や哲学や、倫理とかサイエンスとかになると、話の合う人はわずか。
M氏とぼくは、どうやらそのわずかな部類に入る人間で、
たまたま本のカイシャで、そういう人間がいっしょになったというわけである。

ぼくは、からだを弱めてカイシャをやめた。あれからもう三年経つ。
カイシャをやめると、カイシャの人たちとはまず会わない。
ほとんどの場合、それっきりである。
でも、なかには、カイシャをやめてもちょくちょく(あるいは何年ぶりとかに)会う人もある。
そういう人は片手で数えられるくらいだが、M氏もそのうちのひとりであり−−−
そして、銀河系の男は、本のカイシャから足を洗い、ケッコンをした。

とにかく、そういうわけで、なにはともあれ、M氏と一献。
M氏は、蜆TuRe二號をぱらぱらやりながら、ああレティシアさん、ああトンカさん居留守文庫さん…と、
馴染みの店のように口をついて出てくる。
「なんですか、このキスイクーコー(汽水空港)って?」
「Ahaha…それはおもしろい青年がやっているあたらしいお店です。ぼくはそこの店主のフアンです」
「へえ」
「センサンは、ご存知ですか」
「セン…」
「神戸にあたらしくできた古書店で、数字の1003と書いて、センサンと読むんですがね」
「ああ、それは知らなかったです。どこにあるんですか?」
「元町ですよ」
「いきました?」
「ヤ、それがまだなんです…」
「そうなんですか」
とかなんとかいいながら、徳利をかたむける。
最近はどんな本を読んでいるのかとぼくがたずねると、
M氏はバッグから二冊の本を取り出した。内村鑑三とマルクスアウレリウス。ほほう。どちらも岩波。
おもしろうそうだというと、M氏はアウレリウスをぼくに貸してくれた。
次に一献やるときは、アウレリウスを読み終えたので…が口実になろうか。

その数日後、M氏からメイル。
「こないだのお店、なんていうお店でしたっけ?」
わざわざメイルが来るということは、おもうに、M氏はいま神戸にいて、これから赴こうとしているのではなかろうか。
1003(センサン)ですよ」
とレスポンスしてから、数時間後−−−
M氏から、ふたたびメイル。
見ると、1003さんのお店の写真。
やっぱり。と、おもう。先を越されてしまったな…。
そうして、もう一通。
こんどは、蜆TuReが1003さんのお店に並んでいる写真。
あらあ〜…
じぶんの作ったものが、数ある本のなかのひとつとして並んでいるの目にするのは、ほんとうにうれしいものである。
まして、こうして(たのまれてもないのに)わざわざ足をはこんで
「並んでましたよ」とさりげなくアナウンスしてくれるなんて…キザすぎるぜM氏よ。

では、おしまいに。
1003の奥村さんが、(お店の写真を)どうぞお使いください、とこころよくおっしゃってくだすったので、
ジャッじゃーん…




M氏撮影


お店の外観はこちら。
M氏撮影

と、なんだか、ぼくが1003さんのお店へ足を運んだような書きぶりになってるが、
ちがうちがうよ…いかんいかん…

三號の出る3月までには、I've gotta go 。








コメント

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映像日記

2月14日 水
非番。復調。寒し。
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蜆がゆく! たけうま書房さん(横浜)/汽水空港さん(鳥取)/古本 冬營舎さん(島根)

ただいま蜆は、たびかさなる細胞分裂をくりかえし、
じょじょに〝二号〟になろうとしておるところであります。


だいぶ間があいてしまいましたが、
あらたに3つの店舗で蜆TuReを取り扱っていただけることになりました。

ひとつは、横浜市中区にありますたけうま書房さん。
創刊号に掲載した短編が小学校をぶたいにした話でしたので、
ぜひ横浜の(小生はハマっ子でした)お店にも、ということで置いていただいています。

それから、鳥取県松崎の東郷池のほとりにたたずむ汽水空港さん。
ぼくは、ここの店主のモリテツヤさんのファンになりました。
踏み込んでいえば、いろいろ影響されたい(とおもわせてくれる)ひと。
モリさんは、ちょっと抜けてる、つまり、
感性がズ抜けている、あるいはひょうげているといったらいいでしょうか。
そういう感じが個人的にいたします。

そしてそして、島根におわす古本 冬營舎さん。
ぼくがいちばん置いてもらえたらうれしいのになあ、とおもっていたお店であります。
なぜそんなにうれしいか?
冬營舎さんは、シジミの日本一の産地であるあの宍道湖をのぞむお店なんですね。
もちろんヤマトシジミです。
いわばシジミの古里、いやシジミのトポスといっていいすぎることはありません。
シジミの縁。に感無量。
こちらのページでさっそくご案内くださっていました。店主さまありがとうございます)

前にもぼくは書きましたが、シジミがとれるのは汽水域です。
汽水域。あれちょっと待てよとおもい、東郷池は汽水域なのではないかと調べてみると、、
やはり。東郷池は汽水湖でした。
あ!だから、「汽水空港」という名前なんだ!とそれで気がつく鈍感なぼくです。
モリさんにおたずねしたら、東郷池でもシジミがとれるとのことでした。
なんと!すごいすごい。
日本列島ひろしといえど、シジミのとれる地域はかぎられているんですし、
まして、古書店さんがある地域はもっとかぎられているわけですから、
んー、、心がおどります。

では、たけうま書房さんはどうだろう、、とためしに調べてみますと、
ここがなんと大岡川と横浜港とが合流する汽水域に近かったのであります。


シジミがシジミをさそい、蜆TuReは日本列島を縦断していく、、と。
蜆よ、ゆけ〜!