スキップしてメイン コンテンツに移動

自由への大きさ




年をとるのは楽しい。
時間を経ただけ、じぶんのまわりで未知が目覚めていく気がする。
(ぼくは人より10年遅れてると信じている。)
細胞分裂が描く成長曲線は、だんだんとゆるやかになり、下降の一途をたどるけれど、
そのかわり、皺は深くなり、生命のしずけさは分厚くなっていくように感じられる。

むかしは苦手だったことが、年を経るごとに愛着を持てるようになるのはいいことだ。
ぼくは、子どものころは、歴史や地理や理科がたいへん苦手だった。
日本史はすごくイヤだった。
星座とか地図とかは何の面白みも感じられなかったし、
小学校の理科のテストでは30点をとってしまい、あまりにもマズイので、
部屋の小棚に隠してしまったほどである(ただ、実験はつまらなくはなかった)。
図画工作や美術は、まあまあ苦ではなかった。得意だったからだろう。
体育なんぞは、短距離や持久走くらいならまだよかったが、マット運動やハードルや球技などは、
何のためにわざわざこんな面倒なことをやるのか判然とせず、正直バカバカしくてやってられなかった。
(そんなぼくも、2歳から小学校5年までスイミングスクールに通い、地元のサッカークラブで3年間活動した。
中学では帰宅部にもかかわらず、運動会ではどういうわけかずっとリレー選手に選ばれた)
それがいまでは、どうだろう。
歴史への苦手意識など微塵もなくなった。
山岳地帯や河川や地理が好きになり、地図を見るのも面白いし、天体にはときめくし、
物理やバケガクもできるだけ近くに感じていたいし、生物や植物なんかはワクワクしてしまうし、
身体や解剖学への関心は日に日に高まるわけであり、球技は相変わらず好きになれないが、
登山家やトライアスロンの選手やダンサーなどにはあこがれさえ抱くようになった。
どうだ、いまのぼくはこんなに成長し変革を遂げたのだぞ、すごいだろう、
とかいうことをいいたいのではない。
むかしはむかし、いまはいまだ。あまり、比べてどうこういうものでもない。
しかし、どこかで変異は起きたはずである。
いろんな言い方ができるとおもうのだが、
いちばんの大きな理由は、どうしようもなく何か「ものを書きたい」という欲求が高じたところにある。
ぼくは、高校の終盤になるころまで、まったくといっていいほど自発的に本を読んだことがなかった。
だから、いったいどこでどうやって言葉を吸収していたのか、よくわからない。
そして、なぜものを書きたいと欲するようになったのかも、皆目見当がつかない。
作文はまあまあ得意であったが、それも書けといわれたので書いたくらいの力の入れようである。
何をするにも自発性がなかったようにおもう。
そもそも、じぶんというものに関心を持ちたくなかったのだ。その分、じぶんと他者との境界もあいまいだった。
ところが、急に性格がニヒルがかっていくなかで、なにか焦燥感をともなった表現欲求が芽生えたのだ。
とにかく、熱烈に、どうしようもなく、じぶんのからだから言葉を放ちたくなったのである。
本腰を入れて「書こう」とおもうようになったのは、19のときだ。
浪人生活中にどっぷり、テツガク、シャカイガク、シンピシュギじみた体質になっていたぼくは、
大学にいくときは青インクの万年筆一本と折りたたんだ紙切れしか持っていかなかった。
ろくに授業にも出ず、自習室に閉じこもり、何か書こうとしていた(ろくなものではない)。
家に帰れば、原稿用紙を広げてわけのわからないことを書きなぐり、精神を追い詰め、
「我、齢(ヨワイ)十九より始めるべし。今は兎に角、書くべし、ただただ書くべし」
とか苦し紛れにほざいていたのを思い出す。まあ、空回りもいいところではあったけれど。
その熱量に、なけなしの知的欲求が乗り入れて、だんだんと(まったく遅々たるものではあったが)
世界への関心が高まっていったのだろうとおもう。
けれども、そのころの世界とじぶんとの関係は、ほんとうにまだ未熟で、
書くといっても何を書けばいいのか、詩か、小説か、フォークソングか、戯曲か、それとも暗号か、
それで、それを書いたところでそれがいったい何になるというのか、とうつうつとしながら
暇さえあれば、内省に耽っていたようにおもう。
つまり、ぼくにとっては、「書く」という行為が世界への招待状であり、セラピーだったのである。

やがて、ぼくは意を決して、ひとつの小説を書き上げようと思い立つ。
そして、この小説を書いている最中にある人に出会い、ぼくのなかで人生初のビッグバンが起きることになる。
ぼくは、その人のところへみずから門戸を叩きにいった。生まれてはじめてのことだ。26のころだった。
それから、ぼくと世界とのぎこちない関係は急速にボルテージを上げはじめた。
エキサイティングな火の矢に刺されたぼくのハートは、そのまま、どどどどっと無辺の世界へと
燃え広がっていったのである。

おそらく、あの小説を書き上げようとしなければ、
ぼくは、あの人とも〝その本〟とも(少なくともあの熱量をともなっては)、出会わなかったかも知れない。
そして、ぼくと世界の関係は、もっと不自由なものになっていたかも知れない。

年を経るごとに、限界を知るようになる。いや、知られるようになる。
そして、その分、自由への大きさは広がっていくように感じる。
ぼくが自由になれる?そうではない。
ぼくと世界との関係が経験できる自由が、ずっと先のほうまでのびていくのである。






コメント

このブログの人気の投稿

映像日記

2月14日 水
非番。復調。寒し。
週末ゴダール。インタビューや批評つまみ読み。ドゥボール。situs状況主義。インタビューは何より興味深い。
アンヌ・マリー=ミエヴィルとの共作『Comment ça va?』
ポルトガルで起きたカーネーション革命を下敷きに、「視線」についての考察が中心を流れている。
タイプライターの手を動きと文章を読む目の動きの類比。
視線を司るものは?「文章」。
画面に映し出されるタイポ文字のカーソルの動き。
文章はそれを読む(見る)視線の前で意志を持って動き、視線を監視している。
視線が文章を追うのではなく、文章が視線を追う。
映像を撮ることも映像を観ることも可能
だが、
そこにあるべき「視線」そのものを描くことは(可能かどうかというより)許されているのか?

「最後に、《俳優と観客の間にある映画》というタイポ文字のタイトルが、
 冒頭の《能動と受動の間にある映画》に打ち消された後消去され、
 カーソルだけが空しく動き続けて映画は終わる」(E/M Books 2)

文字を打つ作業と打たれた文字がそこに表象として写し出される現象とのあいだにあるものについて。
「文字を打つという作業」が、打つ人とは別の主体性で、何か別の作業を行っているという仮説に立って。
思考というものがどこから来て、その思考がどのように表象化するのか、
どのようにそれが可能なのかということについての考察へ。
司るものがあるとして。
それは打つ人の内部に?写し出される文字の側に?あるいは作業をする手に?
文字の(カーソルの)動きのほうに?
いずれもそうであってそうでない。
なぜならば、いずれかが司っているということはないから。それらは一貫して司られているといえないか。
物としての文字も文字の動きも作業する手も手を動かす意識や神経伝達の部門も、一貫して。
では何によって司られる?
その「何によって(あるいは、どうやって)」を探究する考察の上に哲学があり、
その探究の影響の上に心理学があり、その探究の質的転移(表象化)の上に芸術がある。
作業や現象が、それが可能になっていく(展開していく)過程で一貫して何かに司られているとするならば、
はじめに「受動ありき」ということがいえるのである。
能動は受動に後押しされていると(呼吸についておもいをめぐらしてみる。呼吸はまず「吐く」ありき。

infra-mince考/『マルセル・デュシャン、メモ』No.10をめぐって

Matsuoka Seigow氏が、あるとき、少人数を対象に行った講習会の場で、こんなことをお話しされた。

「いま、僕は諸君に向かってこうやってマイクでしゃべってます。僕の後ろには、ホワイトボードがあって、そこには
何か文字が書かれてる。で、ここで僕がこう、ホワイトボードのほうを振り返る。そうすると、諸君のほうを向いて
喋っている僕は、ホワイトボートのほうへ体を向ける僕へ移っていく、入れ替わっていくわけですね。そのときに、
いい?そのときに、喋っている僕と、何か書こうとして振り向くホワイトボードとの〝間〟に、何があるか、ということ
なんです。いい?そこを知りたいわけです。僕とホワイトボードの〝間〟がどうなっているか。」

数多く聞いた興味深い話のなかで、この話はいまでも私の記憶のなかに視覚情報と一緒に残っている。
「間 あいだ」というのは、Seigow氏がとても重要視している見方で、精神科医であり哲学者の木村敏さんも、
この言葉を好んで使われている。私は、あまりに頻繁にこの言葉が使われている場面に触れすぎていたのと、
あまりに簡単に使えてしまう言葉であると思っていたこともあって、意図的に用いないようにしていた。
Seigow氏が、この言葉を通して、微妙きわまりないことを説明しようとしているのは、感覚的にわかっていた。
表現へ向かう私の動機が、そういう微妙きわまりない方面に隣接しているという自覚もあった。
だから、なおのこと、言語化をする手前で据え置きしたいという気持ちがあったのである。
分かったようなつもりで口にしたくなかったのだと思う。


私がここで、わざわざこの〝間〟という言葉を引き合いに出すのは、
マルセルデュシャン(Marcel Duchamp)が残した infra-mince という暗号のような造語について、
何かを言わなければならないと思ったためである。

infra-mince/アンフラマンス
(infra-:「下部、下方」の意をあらわす接頭辞 mince:「薄い」)

岩佐鉄男氏によって、「極薄」と訳されたM.デュシャンの物の見方である。
訳者の岩佐氏は次のように言及している。

 この意味を的確に言いあらわす日本語をうまく思いつかないので、この訳稿では《極薄》という語をあてているが、
 たんに「極めて薄い」というのではなく、ちょうど赤外線infrarou…

蜆がゆく! たけうま書房さん(横浜)/汽水空港さん(鳥取)/古本 冬營舎さん(島根)

ただいま蜆は、たびかさなる細胞分裂をくりかえし、
じょじょに〝二号〟になろうとしておるところであります。


だいぶ間があいてしまいましたが、
あらたに3つの店舗で蜆TuReを取り扱っていただけることになりました。

ひとつは、横浜市中区にありますたけうま書房さん。
創刊号に掲載した短編が小学校をぶたいにした話でしたので、
ぜひ横浜の(小生はハマっ子でした)お店にも、ということで置いていただいています。

それから、鳥取県松崎の東郷池のほとりにたたずむ汽水空港さん。
ぼくは、ここの店主のモリテツヤさんのファンになりました。
踏み込んでいえば、いろいろ影響されたい(とおもわせてくれる)ひと。
モリさんは、ちょっと抜けてる、つまり、
感性がズ抜けている、あるいはひょうげているといったらいいでしょうか。
そういう感じが個人的にいたします。

そしてそして、島根におわす古本 冬營舎さん。
ぼくがいちばん置いてもらえたらうれしいのになあ、とおもっていたお店であります。
なぜそんなにうれしいか?
冬營舎さんは、シジミの日本一の産地であるあの宍道湖をのぞむお店なんですね。
もちろんヤマトシジミです。
いわばシジミの古里、いやシジミのトポスといっていいすぎることはありません。
シジミの縁。に感無量。
こちらのページでさっそくご案内くださっていました。店主さまありがとうございます)

前にもぼくは書きましたが、シジミがとれるのは汽水域です。
汽水域。あれちょっと待てよとおもい、東郷池は汽水域なのではないかと調べてみると、、
やはり。東郷池は汽水湖でした。
あ!だから、「汽水空港」という名前なんだ!とそれで気がつく鈍感なぼくです。
モリさんにおたずねしたら、東郷池でもシジミがとれるとのことでした。
なんと!すごいすごい。
日本列島ひろしといえど、シジミのとれる地域はかぎられているんですし、
まして、古書店さんがある地域はもっとかぎられているわけですから、
んー、、心がおどります。

では、たけうま書房さんはどうだろう、、とためしに調べてみますと、
ここがなんと大岡川と横浜港とが合流する汽水域に近かったのであります。


シジミがシジミをさそい、蜆TuReは日本列島を縦断していく、、と。
蜆よ、ゆけ〜!