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耽美を、mg(ミリグラム)。





今回は、あれでいこう。

だいたいそうやって当たりをつけ、鍋でお出汁をとるように、おもむろにアイデアを火にかける。
イメージをセンテンスに熱変換し、センテンス間の分子結合のバランスをととのえながら、
じぶんの表現したいトーンをにじみ出させていく。そんな感じである。
この当たりをうまくつけられないと、トーンがなかなかつくり出せない。
たとえば、二號のときは書く前から「ピストル」でいこうと決めていた。
(だから、とうぜん表紙もピストルになるだろうとおもったが、そこはそうはならなかった。)
ぼくのなかでここ数年来くすぶっていた熱いものを作品に注ぎ込むのに、
ピストルというメタファは非常に役に立つと考えたからである。
そのせいか、少し風刺のきいたはなしになったかもしれないが、
ひとつことわっておくと、ぼくは、時局というものにはまるで無頓着だ。
かといって、完全に無関心ではいられない。同じ時間を過ごす隣人のことは当たり前に気にかかる。
ただ、そういうものに気を取られすぎて、
ひとの自然な感性が振り回されたり、なにか大きな力に回収されたりしてしまうのは、
とてもつまらないし、もったいないことだとおもう。
だから、我かんせず、と涼しい顔して偏屈に時代の風をやり過ごした
鏡花や荷風さんがぼくは好きである。
どこかアナルヒーな匂いのするところが、ほっとするのだ。
さて、ぢゃ、Bang!とやった次の三號は、なにでいこうかと考えるわけだけれども、
あまり迷わずに「耽美」でいくことに決めた。
そうすると、ふっとHans Bellmerの球体関節人形なんかが近づいてきて、
ぼくのハートはまるで病にかかったように奪われてしまう。
このごろは、三島由紀夫がいうところの道徳的ニヒリズムの感覚がじぶんのからだのなかで
免疫力を高めはじめているのか、そういうニヒリズムをとおしてベルメールの人形を見ていると、
そこにひそんでいる痛烈な訴え(あるいは、秘密を発見したときの焦り)のようなものが、
かえって、ありありと目の前に迫ってくる感じがするのである。
そういうときは、ベルメールの波長とじぶんの波長とが、どこかで少し重なり合って
バイブレーションを起こしているのだろうとおもう。
じっさいに、三號がどこまで耽美なものになったかは…ご想像におまかせします。

作品からは少しはなれてーーー。
ぼくはしょっちゅう夢(それも込み入った)を見るほうなのだが、
ちかごろ、なんというか、
夢のほうからこちらに接続をしかけてくるようなことがたびたびある。
べつに、神秘的なはなしをしたいのではない(それでもかまわないが)。
つまり、夢が学習教材になるということだ。
こないだは、ある夢から「美の交配」という言葉を連想し、それについてひとしきり考えた。
おそらく、耽美のことがあたまのなかを巡っていたせいだろうとおもう。
「交配」という言葉の使い方には、ちょっと待ったをかけなければならないかもしれないが、
その夢を見た直後にぼくが感じたことは、
「美」というのは、あるもの(要素)とあるものとの掛け合わせによって
はじめてそこに現出するものなのではないか、ということである。
林檎をふたつ並べたテーブルのうえに、もうひとつりんごを加えることによって
そこに三角形があらわれるように。
それも、もっと微妙で複雑な影響の及ぼし合い方で。
さらに踏み込んでいえば、
たとえ、そこに「美」が現出しているとしても、
そこに「美」を認められるか認められないかで、「美」の継続か消滅かが左右される。
いうなれば、
「美」を見出すという行いのなかに、「美」の現出が存在しているーーー。

では、なぜひとはそこに「美」を認め、見出すことができるのか。
このつづきは、今晩見させられる夢のなかで、自発的に追究してみることにしたい。





スケッチと写真  Hans Bellmer



コメント

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映像日記

2月14日 水
非番。復調。寒し。
週末ゴダール。インタビューや批評つまみ読み。ドゥボール。situs状況主義。インタビューは何より興味深い。
アンヌ・マリー=ミエヴィルとの共作『Comment ça va?』
ポルトガルで起きたカーネーション革命を下敷きに、「視線」についての考察が中心を流れている。
タイプライターの手を動きと文章を読む目の動きの類比。
視線を司るものは?「文章」。
画面に映し出されるタイポ文字のカーソルの動き。
文章はそれを読む(見る)視線の前で意志を持って動き、視線を監視している。
視線が文章を追うのではなく、文章が視線を追う。
映像を撮ることも映像を観ることも可能
だが、
そこにあるべき「視線」そのものを描くことは(可能かどうかというより)許されているのか?

「最後に、《俳優と観客の間にある映画》というタイポ文字のタイトルが、
 冒頭の《能動と受動の間にある映画》に打ち消された後消去され、
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文字を打つ作業と打たれた文字がそこに表象として写し出される現象とのあいだにあるものについて。
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その「何によって(あるいは、どうやって)」を探究する考察の上に哲学があり、
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能動は受動に後押しされていると(呼吸についておもいをめぐらしてみる。呼吸はまず「吐く」ありき。

infra-mince考/『マルセル・デュシャン、メモ』No.10をめぐって

Matsuoka Seigow氏が、あるとき、少人数を対象に行った講習会の場で、こんなことをお話しされた。

「いま、僕は諸君に向かってこうやってマイクでしゃべってます。僕の後ろには、ホワイトボードがあって、そこには
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喋っている僕は、ホワイトボートのほうへ体を向ける僕へ移っていく、入れ替わっていくわけですね。そのときに、
いい?そのときに、喋っている僕と、何か書こうとして振り向くホワイトボードとの〝間〟に、何があるか、ということ
なんです。いい?そこを知りたいわけです。僕とホワイトボードの〝間〟がどうなっているか。」

数多く聞いた興味深い話のなかで、この話はいまでも私の記憶のなかに視覚情報と一緒に残っている。
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私がここで、わざわざこの〝間〟という言葉を引き合いに出すのは、
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infra-mince/アンフラマンス
(infra-:「下部、下方」の意をあらわす接頭辞 mince:「薄い」)

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 この意味を的確に言いあらわす日本語をうまく思いつかないので、この訳稿では《極薄》という語をあてているが、
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蜆がゆく! たけうま書房さん(横浜)/汽水空港さん(鳥取)/古本 冬營舎さん(島根)

ただいま蜆は、たびかさなる細胞分裂をくりかえし、
じょじょに〝二号〟になろうとしておるところであります。


だいぶ間があいてしまいましたが、
あらたに3つの店舗で蜆TuReを取り扱っていただけることになりました。

ひとつは、横浜市中区にありますたけうま書房さん。
創刊号に掲載した短編が小学校をぶたいにした話でしたので、
ぜひ横浜の(小生はハマっ子でした)お店にも、ということで置いていただいています。

それから、鳥取県松崎の東郷池のほとりにたたずむ汽水空港さん。
ぼくは、ここの店主のモリテツヤさんのファンになりました。
踏み込んでいえば、いろいろ影響されたい(とおもわせてくれる)ひと。
モリさんは、ちょっと抜けてる、つまり、
感性がズ抜けている、あるいはひょうげているといったらいいでしょうか。
そういう感じが個人的にいたします。

そしてそして、島根におわす古本 冬營舎さん。
ぼくがいちばん置いてもらえたらうれしいのになあ、とおもっていたお店であります。
なぜそんなにうれしいか?
冬營舎さんは、シジミの日本一の産地であるあの宍道湖をのぞむお店なんですね。
もちろんヤマトシジミです。
いわばシジミの古里、いやシジミのトポスといっていいすぎることはありません。
シジミの縁。に感無量。
こちらのページでさっそくご案内くださっていました。店主さまありがとうございます)

前にもぼくは書きましたが、シジミがとれるのは汽水域です。
汽水域。あれちょっと待てよとおもい、東郷池は汽水域なのではないかと調べてみると、、
やはり。東郷池は汽水湖でした。
あ!だから、「汽水空港」という名前なんだ!とそれで気がつく鈍感なぼくです。
モリさんにおたずねしたら、東郷池でもシジミがとれるとのことでした。
なんと!すごいすごい。
日本列島ひろしといえど、シジミのとれる地域はかぎられているんですし、
まして、古書店さんがある地域はもっとかぎられているわけですから、
んー、、心がおどります。

では、たけうま書房さんはどうだろう、、とためしに調べてみますと、
ここがなんと大岡川と横浜港とが合流する汽水域に近かったのであります。


シジミがシジミをさそい、蜆TuReは日本列島を縦断していく、、と。
蜆よ、ゆけ〜!