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思考の吃りとせつなっぺ



じぶんという人間の小ささにつまずくと、
精神や思考が吃って、
なんだかとてもたよりない気持ちになる。
そういうときは、
きゆうとちっちゃくなって、貝になりたくなる。
失語してしまいたくなる。
われながら、よくぞシジミと名付けたもんだ。
イヤイヤ、それでは本物のシジミに失礼ではないか。


精神や思考が吃るときというのは、
精神や思考をひらこうとしているときで、
ひらこうとするのだが、
うまくひらいていかないので、吃る。
あるいは、うまくひらかなかったらどうしようとおもうので、吃る。
(吃りは、発語の際に「吃ったらどうしよう」とおもうために起きる、と
 あるものの本に書いてあった。)
だが、精神や思考なんてものは、
考えてみれば、
もともと吃りっぱなしだ。
(吃りながらも、みな、どうにかバランスを保っている。)
それが、
内向きの吃りなのか、外向きの吃りなのか。
ここに、大きなちがいがあるとおもう。
内向きというのは、
私と別の私とのあいだで対話がなされる場合で、内省や独り言のようなものとする。
外向きというのは、私と他者とのあいだで対話がなされる場合で、
他者を意識し、他者とのやりとりが発生するものとする。
たとえば、
いまこうして言語をたよりに何か言いたいことを書いているのは、
内向きの行いである。
書きながら、じつは、ああ書こうかこう書こうかと迷っているわけだが、
その迷いには、内向きの迷いと外向きの迷いがあるのだ。
「ぼくはこういうことを言いたいのだが、それを言うためにはどう書いたらいいか?」
これは内向きの迷いであるといえる。
書き進めているうちに、ハタとこの記事を読む人の側に立ったときに、
「これを読む人はいったいどうおもうだろう?ひとりよがりになっていないだろうか?」
という疑問を抱くことになるのだが、
この場合は外向きの迷いが生まれているといえるとおもう。
外向きの迷いが生まれると、トタンに筆がもたつく。つまり、思考が吃るわけだ。
ぼくはこんなことを書いて、いったいどういうつもりなのだろう?
こんなことを書いているが、ぼくはどこまでちゃんとわかって書いているのだろうか?
読む人にじぶんの精神世界を見せつけて、どうしようというのか?
これを読んで、少しでも人は関心を持ったり納得したりすることができるだろうか?
ストレスを与えてはいないだろうか?
ただ、この迷いも、
自己のなかで発生し、自己のなかで解消されるものであって、
直接には、あるいは現実には、
この迷いの発生の場に「他者」は現れない。
「他者」が実際に私の目の前に現れるのは、私と他者とのあいだで対話がなされる場合。
つまり、私の前に「他者」が現れる場合。
このとき、はじめて、
思考の吃りが、ありありと私と他者の前に現れるのである。
「他者」が、私の吃りを外へと連れ出す。
あるいは、私と「他者」のあいだで、吃りというものは起こる。

「他者」との対話において、
精神や思考の吃りが生じるのはなぜだろうか。
おそらく、複数の「つまずき」が作用しているのではないかとおもう。
−−−いま相手は、どれくらいぼくの話に耳をかたむけているだろうか?
−−−いまから話すことを相手にうまく伝えることができるだろうか?
−−−相手はこの話題を好むだろうか?
−−−(話してみて気づいて)ぼくは、それほどわかって話していないかもしれない。
−−−わかったふりをして話してしまうことになるのは、よくないだろう。
−−−ぼくはここまで相手の話をよく聞き、しっかり理解できているだろうか?
−−−ぼくはここまで相手が聞きたい内容を話してこられているだろうか?
−−−一方的に話してしまっていないだろうか?
−−−相手はぼくの話に(私の話し方の問題を含めて)ついてこられているだろうか?
−−−ぼくと相手の思考パターンはどれくらい類似し、どれくらい相反しているだろうか?
−−−(相手の反応を感じとって)いまのは、あまり相手にひびかなかったかもしれない。
−−−私たちはどこへ向かって話をしているのだろうか?
−−−もう少し話の行き先を意識しながら、話をしたほうが実りがあるだろう。
−−−(相手の経験や思考に触れて)ぼくに不足しているものは山ほどあるようだ。…

相手の話を聞き、じぶんの話をしながら、
こういう考えがアタマのなかをめぐるので、そのつど、思考に「つまずき」が起きる。
思考と同様に精神(こころ)も揺れるので、精神にも「つまずき」が起きる。
そのために、
「他者」に対する「言語の選択」に迷いが生じる。
精神や思考が吃るというのは、そういう意味だ。


学びを得るための最適な相手は、他者だ。これはほんとうに強く感じる。
そして、最適な場は、顔と顔を合わして直接話ができる場面である。
学びを得るには、このフェイスtoフェイスの場は、エッセンシャルだとおもう。
というのはわかっているのだが、
ぼくは、じぶんの人間の小ささのために、
人と会ったあとは、ぐったりしてしまう。
そして、ただでさえ小さいのに、きゆうとちっちゃくなって、
シジミと化すのだ。
そうして、その小さな密室の暗がりのなかで、
反省と妄想をくり返しながら、
ため息を漏らし(ぼくはいろんなものを漏らして生きているような気がする)、
ワタクシなりの方策をせつなっぺのごとく放(ひ)るのである。



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続 工場日記

その一 「痛み」

僧帽筋、脊柱起立筋、左三角筋、左手尺骨三角骨靭帯、胸鎖乳突筋…
これまでに労働をつうじて特に試練をしいられてきた主な部位たち。
なかでも胸鎖乳突筋の痛みには完全に参った。
ある夏の晩、寝ちがえる。首に経験したことのない激痛が走る。
数日前から頸部を中心に体の痛みをおぼえていたのであったが、
そこに、Liquorの過剰投与とその後のまずい体勢での寝入りが引き金となり、
トドメを刺されたかたちである。
首を回せない。寸分動かそうものなら、稲妻が走る。
そうなれば蚊の鳴くような声で泣くしかない。咀嚼もままならない。
患部を揉み揉み、なんとか読書ができるくらいまで回復したその日の晩、ふたたび激痛。
いよいよ万事休すと近くに整体院がないかを調べることに。
調べていくあいだに、寝違えのことがわかってくる。
どうも、寝違えというのは、
腋内側に走っている「腋窩(えきか)神経」が圧迫されて起こるようである。
寝違えて頸部に痛みを感じた多くの人は、首を揉んだり横に曲げて伸ばしたりするが、
これは一番行ってはいけないことなのだそうだ。
理由は、頸部の筋肉はいままさに炎症を起こし圧迫されている状態なのであって、
そこを揉めば圧迫に拍車をかけ、さらなる炎症を引き起こし痛みを悪化させるため、と。
やってはいけないことをやれば、治るものも治らない。
何かいい手はないものだろうかとおもいながらさらに調べていくと、対処法なるものを見つける。
腋窩神経を圧迫から解放してあげる有効な体操。

体操1
1. 背筋をのばし脱力。
2. 痛む側の腕を後方へ引き、少しずつ上げる。
(手首はだらりと垂らす)
2. 上がりきったところで、20秒キープ。腕をゆっくり戻す。(2セット)

体操2
1. 痛む側の手を腰に当てる。
2. 肘を後方へ引く。
3. 引ききったところで、20秒キープ。腕をゆっくり戻す。(2セット)

体操3
1. 痛む側の腕を手のひらを上にして肩の位置まで上げる。
2. 120度の角度で肘を曲げ、そのまま水平に後方へ引く。
(体はひねらず腕だけを後ろへ)
3. 引ききったところで、20秒ほどキープ。腕をゆっくり戻す。(2セット)

実際にやってみると、どうしようもなかった首の痛みが引いた。
ただ、いつあの痛みが再発するとも知れないので、しばらくは用心の日々を送ることに。

映像日記

2月14日 水
非番。復調。寒し。
週末ゴダール。インタビューや批評つまみ読み。ドゥボール。situs状況主義。インタビューは何より興味深い。
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ポルトガルで起きたカーネーション革命を下敷きに、「視線」についての考察が中心を流れている。
タイプライターの手を動きと文章を読む目の動きの類比。
視線を司るものは?「文章」。
画面に映し出されるタイポ文字のカーソルの動き。
文章はそれを読む(見る)視線の前で意志を持って動き、視線を監視している。
視線が文章を追うのではなく、文章が視線を追う。
映像を撮ることも映像を観ることも可能
だが、
そこにあるべき「視線」そのものを描くことは(可能かどうかというより)許されているのか?

「最後に、《俳優と観客の間にある映画》というタイポ文字のタイトルが、
 冒頭の《能動と受動の間にある映画》に打ち消された後消去され、
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文字の(カーソルの)動きのほうに?
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今回の蜆TuRe(第七號)は、海と転生というテーマでひとつ書いてみた。
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