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玄界灘を見た話 追憶の朝鮮半島 其一




ある初夏のこと。

私は天神駅から地下鉄に乗りローカル線を乗り継いで、海の中道という終着駅に降り立った。
ここを西の方角にまっすぐすすめば志賀島にたどり着く。
海の中道はその名のとおり、海の真ん中を走っている。
海はこの道で二つに分かたれており、
志賀島の方角を背にして、右側には博多湾、左側には玄界灘が広がる。
つまり、海の中道は博多湾と玄界灘の境界線上にのびている道というわけである。

玄界灘の海を見たいとおもっていた。
その海を見ながら帰化人に想いをはせたかったのだ。
駅を降りると、そこは海浜公園の入り口と隣接していた。
玄界灘のほうに抜けるには入園しなければならないようであった(と後でわかった)が、
公園へ入るのは気が進まなかった。
それで、反対の博多湾のほうへつづく道をすすんだが、
そっちは人気のない水族館のほかは何もなかったので駅まで引き返した。
駅前にあった地図をいまいちど確認する。
公園に入らずに玄界灘のほうへ抜けるには、海の中道を西か東のどちらかへ
ひたすら歩きつづけるしかないということが、そこでようやくわかった。
西へ行けば志賀島だが、海の中道駅より西へは路線がとおっていないので行っても戻ってこられない。
そうなると、必然的に東の方角へ歩くほか選択肢はない。
どうしようか少し迷ったが、逸脱を辞さない私の本性が勝手に私の足を東へ向かわせた。
どこかで玄界灘へつうじる道がのびているにちがいないという予測をつけて、
東を目指して一本道の国道を歩きはじめた。
国道を挟む左右の砂州はどちらも海浜公園の敷地になっていて、高い鉄柵で囲われ、
歩行者が勝手に入れないようになっていた。
柵は延々どこまでもつづいていた。
それでも、おそらくどこかで途切れるはずだと私はおもっていた。
歩きはじめて2時間近く経ったあたりで、左に曲がる狭い道がようやくあらわれた。
私はその道を道なりにすすむことにした。
はたしてこの道が玄界灘につうじているかどうかは不明だったが、
逸脱の本性が私をいざなうのだからそれに従うまでである。
道の入り口で、ハイキングの格好をした男性が歩道に腰を下ろして休んでいた。
グレイスーツにスニーカーという私の出で立ちが、その道を行くにはあまりに似つかわしくなかったのだろう。
男性は、目の前を通り過ぎていく私のことを奇異なものを見る目で見ていた。
このまま登山コースにかわるのではないかという不安を途中で感じたが、
徐々にふつうのよくある歩道にもどりホッとした。
ただ、道がえらく曲がりくねり、しかも結構な高さまで登ってきているのが気がかりではあった。
こっちでほんとうにいいのだろうか。
玄界灘につうじているかどうか(むろん、つうじている保証はどこにもないわけであったが)はさておき、
このまますすむと引き返せなくなるのではないか。
だんだん怪しい感じがしてきていたが、登りきったところで次の手を考えようとおもった。
歩くこと30分。ようやく坂道を登りきる。
道はそこで左に折れていた。右手には高齢者の療養施設が見えた。
しばらく道なりにいくことにした。野球少年たちが練習するグラウンドの前を過ぎる。
そのあたりで、これはもう止めたほうがいいと私はおもった。
ちょうど道の左側に神社が目に入った(志式神社という神社だった)。
少しここで休んでから引き返そう。そうおもい、鳥居をくぐった。
境内の空気は涼しかった。細道を歩き、小さな祠の横を通る。立ち止まって手を合わせ礼をする。
細道はさらに奥へつづいているようだった。
ふと、少し先にひとつの看板が目に止まった。
「遊泳禁止」ーーー。
遊泳禁止?と私はおもわず声に出して読んだ。
ということは、どういうことか。
この先に海があるということではないか。
私は騙されたつもりで細道の先へと足を向かわせた。
細道は、すぐにやや急な下り坂にかわった。その坂道づたいに歩いていくとーーー
ぱっと視界がひらけて、目の前に真っ青な海が広がっていたのである。
やった。やっと出た。ついに玄界灘にたどり着いた。
海を見てあれほど嬉しさをおぼえたことは、そのときがはじめてだった。

私は白い浜辺を歩き、石塀に腰を下ろしてしばらくのあいだ海のむこうを眺めていた。
これが玄界灘の海か。遥か昔、この海の向こうから大陸の人たちがこの島へやって来たのだ。
朝鮮から。中国から。ペルシャから。
私は海を見やりながら、かつての朝鮮半島にまで想いをはせてみた。
想いをはせるとはいうものの、なかなかはせるまでには想いは及ばないものである。
それには積年の想いを要する。

さてじつは、ここまではほんの前置きに過ぎないのだ。
これは、私がなぜ朝鮮半島に想いをはせるのかという話をするための、ほんの触りのつもりで書いた。
だから、ここからが本題。でも、それはまた後の機会に譲ることにする。







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続 工場日記

その一 「痛み」

僧帽筋、脊柱起立筋、左三角筋、左手尺骨三角骨靭帯、胸鎖乳突筋…
これまでに労働をつうじて特に試練をしいられてきた主な部位たち。
なかでも胸鎖乳突筋の痛みには完全に参った。
ある夏の晩、寝ちがえる。首に経験したことのない激痛が走る。
数日前から頸部を中心に体の痛みをおぼえていたのであったが、
そこに、Liquorの過剰投与とその後のまずい体勢での寝入りが引き金となり、
トドメを刺されたかたちである。
首を回せない。寸分動かそうものなら、稲妻が走る。
そうなれば蚊の鳴くような声で泣くしかない。咀嚼もままならない。
患部を揉み揉み、なんとか読書ができるくらいまで回復したその日の晩、ふたたび激痛。
いよいよ万事休すと近くに整体院がないかを調べることに。
調べていくあいだに、寝違えのことがわかってくる。
どうも、寝違えというのは、
腋内側に走っている「腋窩(えきか)神経」が圧迫されて起こるようである。
寝違えて頸部に痛みを感じた多くの人は、首を揉んだり横に曲げて伸ばしたりするが、
これは一番行ってはいけないことなのだそうだ。
理由は、頸部の筋肉はいままさに炎症を起こし圧迫されている状態なのであって、
そこを揉めば圧迫に拍車をかけ、さらなる炎症を引き起こし痛みを悪化させるため、と。
やってはいけないことをやれば、治るものも治らない。
何かいい手はないものだろうかとおもいながらさらに調べていくと、対処法なるものを見つける。
腋窩神経を圧迫から解放してあげる有効な体操。

体操1
1. 背筋をのばし脱力。
2. 痛む側の腕を後方へ引き、少しずつ上げる。
(手首はだらりと垂らす)
2. 上がりきったところで、20秒キープ。腕をゆっくり戻す。(2セット)

体操2
1. 痛む側の手を腰に当てる。
2. 肘を後方へ引く。
3. 引ききったところで、20秒キープ。腕をゆっくり戻す。(2セット)

体操3
1. 痛む側の腕を手のひらを上にして肩の位置まで上げる。
2. 120度の角度で肘を曲げ、そのまま水平に後方へ引く。
(体はひねらず腕だけを後ろへ)
3. 引ききったところで、20秒ほどキープ。腕をゆっくり戻す。(2セット)

実際にやってみると、どうしようもなかった首の痛みが引いた。
ただ、いつあの痛みが再発するとも知れないので、しばらくは用心の日々を送ることに。

映像日記

2月14日 水
非番。復調。寒し。
週末ゴダール。インタビューや批評つまみ読み。ドゥボール。situs状況主義。インタビューは何より興味深い。
アンヌ・マリー=ミエヴィルとの共作『Comment ça va?』
ポルトガルで起きたカーネーション革命を下敷きに、「視線」についての考察が中心を流れている。
タイプライターの手を動きと文章を読む目の動きの類比。
視線を司るものは?「文章」。
画面に映し出されるタイポ文字のカーソルの動き。
文章はそれを読む(見る)視線の前で意志を持って動き、視線を監視している。
視線が文章を追うのではなく、文章が視線を追う。
映像を撮ることも映像を観ることも可能
だが、
そこにあるべき「視線」そのものを描くことは(可能かどうかというより)許されているのか?

「最後に、《俳優と観客の間にある映画》というタイポ文字のタイトルが、
 冒頭の《能動と受動の間にある映画》に打ち消された後消去され、
 カーソルだけが空しく動き続けて映画は終わる」(E/M Books 2)

文字を打つ作業と打たれた文字がそこに表象として写し出される現象とのあいだにあるものについて。
「文字を打つという作業」が、打つ人とは別の主体性で、何か別の作業を行っているという仮説に立って。
思考というものがどこから来て、その思考がどのように表象化するのか、
どのようにそれが可能なのかということについての考察へ。
司るものがあるとして。
それは打つ人の内部に?写し出される文字の側に?あるいは作業をする手に?
文字の(カーソルの)動きのほうに?
いずれもそうであってそうでない。
なぜならば、いずれかが司っているということはないから。それらは一貫して司られているといえないか。
物としての文字も文字の動きも作業する手も手を動かす意識や神経伝達の部門も、一貫して。
では何によって司られる?
その「何によって(あるいは、どうやって)」を探究する考察の上に哲学があり、
その探究の影響の上に心理学があり、その探究の質的転移(表象化)の上に芸術がある。
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みな、地球。

年始に買った築地書館の『土と内臓』(ほんとうにほんとうに面白い本)のおかげで、
幸運なことに、私のなかに微生物への愛が芽生えた。
もともと微生物に愛着はあったけれど、いよいよ全身全霊で愛していこうとおもう次第。

今回の蜆TuRe(第七號)は、海と転生というテーマでひとつ書いてみた。
ちなみに今回はタイトルが長い。
『急げブランキゆるやかに この途方もない軽さのうえへおもいをはせよ』
なんとなく、ヘンリミラーの『ビッグ・サーとヒエロニムス・ボッシュのオレンジ』みたいなアップテンポの語感がほしかった。
それはさておき、これを書いている最中、プランクトンに友情を抱き、
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都民ファースト都民ファーストと東の方からは聞こえてくるが、いやいや地球ファーストだろう。
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はるか昔、地球の中核で煮えたぎるマグマにもっとも近い海底の墳気孔で古細菌が生まれた。
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酸素をこのむ好気性の細菌との結婚のときをじっと待ち、来たるべき原生動物の誕生にそなえていた。
それから何十億年もたって、真核細胞は植物を生み、動物を生み、生命の一部は海から陸へと上がっていった。
地上では、堅い岩が気の遠くなる時間をかけて砕け、そこに動物微生物の死骸が積もり、やがて豊かな土になった。
そうやって積み重ねられた長い長い建設作業の末に、生命の原初的な土台が築かれたのである。
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たとえば牛の体のなかはどうだろう。
牛は草を食べ、それを胃と口のあいだで何度も反芻する。
この反芻に、牛が生き延びていく上でとても重要な秘密が隠さ…