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4月, 2016の投稿を表示しています

キューピー誤植事件

先にもうゆってしまおう。
これは、三号の刷り上がりに誤植を見つけてしまったときの話である。
読者のみなさまには、誤植を訂正したものをお渡ししているはずなので、ご安心を。
三号の小品は、P(ぴー)ちゃんとQ(きゅー)ちゃんのふたごが出てくる。
前半はPちゃんしか出てこない。中盤、Qちゃんが出てきて、さいごにPちゃんとQちゃんがこんにちはする。
ところが、Qちゃんがまだ出てきてはいけない前半のおわりに、「Q」の字を1つ見つけてしまったのだ。
つまり、「P」と書かれていなければならない箇所が、1点だけ「Q」になっていたのである。
思わず目を疑った。汗がどっと出た。
こんなまちがいに、気がつかないはずがないからである。
そして、まさかこんなまちがいに、こんなタイミングで出くわすとは、夢にも思わなかったからである。
えッ?(ちょっと待て…)えッ?(ちょっと待て…)えッ?
と、こんなのを4回くらい繰り返して、ようやく「あ、やったな」と観念したのである。
定期読者のみなさんにお送りする分と、取り扱い店の方々にお渡しする分を、すっかり揃えて、
(封もしちゃって)あとは封筒に切手を貼るだけという段になって、信じられない誤植を発見してしまった。
「P」と「Q」の逆転なぞは、もっとも見落とすはずのない箇所である。
というか、文責としてあるまじきミステイクだ。だ、だ、だ。
WHY?
いつどこで?
わたしは、初校が上がってくる前の元原稿をひらいてみた。
「はい、やった」
案の定、元原稿ですでにまちがっていた。
つまり、そのあと、二校三校と赤入れをしている最中も、まったく気がつかなかったということだ。
バカか。トンマか。おたんこなすか。
なッ さけねえーー、の一言である。
でも、しょーがない。みなさまのお手元に渡る前に奇跡的に気づけただけ、よかった。
で、どうする?
「Q」の文字の上から「P」を貼っつけるまでだ。
どうやって?
予備を使い、ひたすら「P」の字だけをいっこいっこ摘出するんだ。
「了解。」
もう夜中だったが、すぐに作業に取り掛かり(途中で少し寝て明け方また起きて)、
朝までに当座必要な約「60P」の摘出および縫合手術を完了した。
そのまま、昼過ぎくらいまで、追加「60P」分を摘出し、縫合した。
やるたびに作業がスムーズになっていく。もはや、職人芸だ。(ここは笑うところです)
4…

1号派? or 2号派?

蜆TuRe、読者のタイプが1号派と2号派に大きく分かれた。

1号派は、どちらかというと、ガチな芸術ヨリ。2号派は、どちらかというと、ザックリの芸能ヨリ。

ここで勝手に具体例として引き合いに出させていただくと、

居留守文庫の岸昆さんは「1号派」で、汽水空港のモリさんは「2号派」である。

岸昆さんを含め、1号派は2号をあまり評価していない。

対して、2号派は、1号がいまひとつピンときていない。

こういう傾向が、ある。

1号をぼろんけちょんに叩いたとある友人は、2号を手放しで絶賛した。

岸昆さんが、2号の出来を1号に比して「後退」という言葉であらわした。

当の本人はといえば、

1号と2号とでやったことのちがいはわかっているので、

そのちがい分、ウケが変わったのだろうとまずはおもう。

1号は、あれは蜆カラーをそのまま出した小品である。おそらく、そういっていいとおもう。

で、2号だが。2号は、「こういうのはふつうオレは書かない」というのをやろうとおもってやってみた。

2号では、ほんとうは別の作品を予定していて、

直前までかなり詰めていたのだが、泣く泣くボツにし、『ブラックバック』になった。

2号を、ああいう、いくらかキャッチーなテーマに選んだのにはワケがある。

ひとつは、1号を読んだ読者の反応がうすかったこと(表紙の反応は頗るよかった)から、

どうも『揚げパン』は読みづらいのかもしれないと書き手のわたしは感じた。

せっかく定期購読してもらっている以上は、読み物として少しは満喫できるものでないと

いかんだろうという反省もあった。

それでまア、その時局のうんぬんは置いておくとして、

去年の暮れは、わたしが大杉栄の自叙伝に惚れ込んでいたこともあり、

往年くすぶっていたピストル的なものへのあこがれを一丁注ぎ込んでやろうと決めたのだ。

ではひとつポップな路線でやってみよう。

それで出来たのが、2号の『ブラックバック』である。


で、だ。

2号の反応がおもいのほかよかったことに、わたしはどう感じたかというと、

はっきりいって、あまりうれしくなかった。イヤだなとおもった。

「話として読めた(読んでもらえた)」という点においては、

「ああよかった、オレの書く日本語はちゃんと日本語だったんだ」と安堵し、よろこんだ。

だが。

わたしは、エンタメをやるつもりは毛頭ない。

消暇読物をこさえるくらい…

そのひとのために書く

蜆(シジミ)というおかしな名を名乗り、小生は
極私的な一人文芸誌『蜆TuRe(シジミチュール)」を人の手をお借りして
世に出したのであります。
文と絵を小生がこしらえ、それらの素材を信頼するデザイナーYさんに託して
冊子のかたちになるように設計してもらうのです。
どうせなら、デザインもじぶんでやってしまえばよいではないか、
そうおっしゃる方があるいはおられるかも知れない。
しかし、それはまったくちがいます。
Yさんの一連のデザイン仕事は、「(小生が)じぶんでやってしまえばよい」といえるレベル
からはるか遠くかけ離れたところで為され得るものだと、小生は知っているからであります。
その技能と感性は、得難いものであるということなのです。
小生も、そのことを実感し理解するのに少しく時間を要しました。
だが、時間を要した分、揺るぎない考えになったのです。
Yさんの仕事がなければ、蜆TuReは、物理的にのみならず、実質的に〝普及〟し得なかった。
これは真実です。

小生にとって、蜆TuReは、ひとつの練習帖であるといえます。
練習帖と申し上げるのは、実践の試みという意味であって、
練習とはいえ、読者の皆さまの前にお見せするものは、
小生なりに練りに練った上で披瀝する「本番」にちがいないのです。
そして、この試みは、
蜆という一人の個人において生じ、個人において滅するという属性を持ちます。
その属性において、小生の練習帖は孤独である宿命を免れないとかんがえます。
小生はこれまで日日、何かにつけ、書いてはきましたが、
それは依然として「書かれるための書くという行為」に過ぎなかったろうとおもいます。
そこを乗り越える必要があったわけなのです。
そこを一歩またいで、「読まれるための書くという行為」へ向かわせることが必要でした。
小生が蜆TuRe発刊に踏み切った最も強い動機のひとつがそこにあります。
どうするかを決めるのはさいごは本人ですが、
正しい判断を下すためには、まったくひとりで行うというのは限界があるものです。
発刊を踏み切るに至るまでには、数多くの説得が小生に対してなされてきました。
そしてもうひとつの強い動機。
それは、いまじぶんが持っているものを、いま全て投げ出せるかどうかということです。
もし、それができないのであれば(出し惜しみをする逃げをとるようであれば)、
所詮オ…

Hatch out now Ⅱ

三號のテーマは、「耽美」。 ということで、 ちょっとムーディーにアラーキーしてみると、こんな感じに。
えー先に見せちゃうのマズくないですかー、って? へーきへーき。まず誰も見てないから。
でも、どんなお話かまでは、ぼくの口からはいえません。













Hatch out now

こちら三半亭、三半亭。

え〜蜆TuRe第三號、第三號、

ただいま孵りました、どうぞー。

あ〜、ぱっと見は、白。

じっさいは、若干うすむらさきがかっている、どうぞー。












みずからに問うてみてわかること シジミの勉強会(休憩時間)

作家、三半亭の座卓の前に座りて、なにやら思ひ定まらぬ様子。
おもむろに抽斗から半紙を取り出し、筆をとる。




前略
お前さん


さっきおかしな探偵がやって来て、余にいろいろ聞いて帰っていった。
あんなふうに突然来られると、余も困ってしまうのだが、どうにかお茶を濁して追い払ってやった。
キャツは、余に問うた。お前はどうしてシジミというのかと。
余はおもうた。ホレ来たまただ。
余にもっとも近しい事柄であるはずなのに、それを聞かれて余はこれまでうまく答えられた試しがない。
無論、余は何の考えもなく、ただ雰囲気だけでシジミと名乗り出したのではない。
ちゃんと考えと信条と目論みがあってのことである。
でも、これがなかなかうまくいえぬ。
真剣に答えようとすればややこしい印象を与えかねず、軽く答えてみればなんだそれだけのことかと飽きられる。
いや、ちがうのですそうではないのです、ことは単純でつまりは云々、あるいは…実はかくかくしかじかの言い分が
ありまして云々、などと慌てて訂正を申し入れる始末なのである。
そのうち、聞いたほうも、へえとかふうんとかやり過ごして、話は尻つぼみになり、ついには立ち消える。
だめだこりゃ。余は忸怩たるおもいを胸に、きゅっと小さくちぢこまり、ただ黙るのみ。
このときが来てはじめて、余はおもいいたる。
アアそうだった、シジミとはこのような余のあり様を指していうのだったと。
だけど、いざ聞かれるとそれが先に出て来ない。引っ込めてしまう。引っ込めて、それよりも何かもっと魅力的な
理由を魅力的に語って差し上げようというサービス精神が先だってしまう。早い話が、背伸びをしようとするのだ。
でも、背伸びはしたくないので、言葉につまる。どういおうかと迷っているうちに、その話は宙ぶらりんになって、
二度と答えるチャンスは訪れない。

余がシジミという筆名を撰択してから、三年ほど経つ。
名付けた当時のころを純粋に振り返ってみると、余は、あのころ、ただただ静かな名前を必要としていた。
だから、はじめにまず 水 という字を撰択した。余は、もとより水が好きであったから。
それに、suiという音もよい。そこに 不 という文字がついて、不水となった。
不は打ち消しの意であるが、この不はあとの水にかかっているのではない。そこに、一文字フッと浮き出している
ようなイメージで 不 と置きたかっ…