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みずからに問うてみてわかること シジミの勉強会(休憩時間)



作家、三半亭の座卓の前に座りて、なにやら思ひ定まらぬ様子。
おもむろに抽斗から半紙を取り出し、筆をとる。




前略
お前さん


さっきおかしな探偵がやって来て、余にいろいろ聞いて帰っていった。
あんなふうに突然来られると、余も困ってしまうのだが、どうにかお茶を濁して追い払ってやった。
キャツは、余に問うた。お前はどうしてシジミというのかと。
余はおもうた。ホレ来たまただ。
余にもっとも近しい事柄であるはずなのに、それを聞かれて余はこれまでうまく答えられた試しがない。
無論、余は何の考えもなく、ただ雰囲気だけでシジミと名乗り出したのではない。
ちゃんと考えと信条と目論みがあってのことである。
でも、これがなかなかうまくいえぬ。
真剣に答えようとすればややこしい印象を与えかねず、軽く答えてみればなんだそれだけのことかと飽きられる。
いや、ちがうのですそうではないのです、ことは単純でつまりは云々、あるいは…実はかくかくしかじかの言い分が
ありまして云々、などと慌てて訂正を申し入れる始末なのである。
そのうち、聞いたほうも、へえとかふうんとかやり過ごして、話は尻つぼみになり、ついには立ち消える。
だめだこりゃ。余は忸怩たるおもいを胸に、きゅっと小さくちぢこまり、ただ黙るのみ。
このときが来てはじめて、余はおもいいたる。
アアそうだった、シジミとはこのような余のあり様を指していうのだったと。
だけど、いざ聞かれるとそれが先に出て来ない。引っ込めてしまう。引っ込めて、それよりも何かもっと魅力的な
理由を魅力的に語って差し上げようというサービス精神が先だってしまう。早い話が、背伸びをしようとするのだ。
でも、背伸びはしたくないので、言葉につまる。どういおうかと迷っているうちに、その話は宙ぶらりんになって、
二度と答えるチャンスは訪れない。

余がシジミという筆名を撰択してから、三年ほど経つ。
名付けた当時のころを純粋に振り返ってみると、余は、あのころ、ただただ静かな名前を必要としていた。
だから、はじめにまず 水 という字を撰択した。余は、もとより水が好きであったから。
それに、suiという音もよい。そこに 不 という文字がついて、不水となった。
不は打ち消しの意であるが、この不はあとの水にかかっているのではない。そこに、一文字フッと浮き出している
ようなイメージで 不 と置きたかった。白地にうす墨がぼんやりと浮き上がる水墨画のようなイメージである。
不水とすることまでは決まったから、あとはさいごに画竜点睛の目をがつんと入れてやり、ぎゅっと帯紐で結んでやれば、
全体それなりに名前らしくなるだろう。そうおもっていたのであるが、その空白に何を入れるかがてんで決まらない。
不水××がよいか、それとも、××不水がよいか。
余は、意よりもまず音をたよりに文字を撰択しにかかる。不水fu-suiという音と相性のよい音はどこにある?
その音はどんな意と含意=喩(たとえ)を持ちうる?名前らしくない名前であるほうが好ましい。
そういったことをアタリにして文字を探していくうち、アカンもうおもいつかんというタイミングで、
ひょんなはずみで 蜆 と出てきたのであった。蜆ci-ji-miには、音と意がいっしょになって入っていた。
余は、黒(黒の含意は奥深いから)が好きで、黒い石(鉱物は何かとあやしいから)が好きだから、
蜆がそのメタファ(喩)となってくれることも期待できた。 
そして、何より余は蜆そのものが好きである。あのぽつねんとした感じ、蜆汁のあの苦み。たいへんに好きである。
しかし、 蜆 と来たときには、われながらデカシタゾとおもったものだった。
この一文字が、余の信条や思惑を暗黙裡に言い表してくれるだろうという大きな期待。
そしてまた、その漢字の風貌。偏が「虫」。旁は「見」。貝なのに「虫」。んー、変。「見」のなかに「目」=眼球が
入っているところもなかなか憎い。「見」は「貝」の字にも似ているが、あくまで虫偏の貝なのである。
なんか気持ちわるくて、いい。不気味で奇妙で、やたらいい。いくらか滑稽で、どことなくさびしい。
そして、その音。ci-ji-miの ci には、死の意を透かし見ることができるだろう。
i音とu音だけで出来た、何かのアナグラムのような音の排列。

こうしてお前さんにむけて筆をとっていると、だんだんと気がついてくることがある。
どうして蜆なのかと問われて余が言い澱むのは、おそらく余のこころのどこかで、「蜆」というものの意を
分からない謎のままにしておきたいというおもいがあるからなのではないだろうか。

そんなふうにおもうのだが、
どうだろうか、お前さん。





不悉






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