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そのひとのために書く





蜆(シジミ)というおかしな名を名乗り、小生は
極私的な一人文芸誌『蜆TuRe(シジミチュール)」を人の手をお借りして
世に出したのであります。
文と絵を小生がこしらえ、それらの素材を信頼するデザイナーYさんに託して
冊子のかたちになるように設計してもらうのです。
どうせなら、デザインもじぶんでやってしまえばよいではないか、
そうおっしゃる方があるいはおられるかも知れない。
しかし、それはまったくちがいます。
Yさんの一連のデザイン仕事は、「(小生が)じぶんでやってしまえばよい」といえるレベル
からはるか遠くかけ離れたところで為され得るものだと、小生は知っているからであります。
その技能と感性は、得難いものであるということなのです。
小生も、そのことを実感し理解するのに少しく時間を要しました。
だが、時間を要した分、揺るぎない考えになったのです。
Yさんの仕事がなければ、蜆TuReは、物理的にのみならず、実質的に〝普及〟し得なかった。
これは真実です。

小生にとって、蜆TuReは、ひとつの練習帖であるといえます。
練習帖と申し上げるのは、実践の試みという意味であって、
練習とはいえ、読者の皆さまの前にお見せするものは、
小生なりに練りに練った上で披瀝する「本番」にちがいないのです。
そして、この試みは、
蜆という一人の個人において生じ、個人において滅するという属性を持ちます。
その属性において、小生の練習帖は孤独である宿命を免れないとかんがえます。
小生はこれまで日日、何かにつけ、書いてはきましたが、
それは依然として「書かれるための書くという行為」に過ぎなかったろうとおもいます。
そこを乗り越える必要があったわけなのです。
そこを一歩またいで、「読まれるための書くという行為」へ向かわせることが必要でした。
小生が蜆TuRe発刊に踏み切った最も強い動機のひとつがそこにあります。
どうするかを決めるのはさいごは本人ですが、
正しい判断を下すためには、まったくひとりで行うというのは限界があるものです。
発刊を踏み切るに至るまでには、数多くの説得が小生に対してなされてきました。
そしてもうひとつの強い動機。
それは、いまじぶんが持っているものを、いま全て投げ出せるかどうかということです。
もし、それができないのであれば(出し惜しみをする逃げをとるようであれば)、
所詮オノレはその程度の作家性であるとおもったほうがよい。
それを知ってやっているか、知らないでやっているかのちがいは大きい。
ただ漠としたポテンシャルを胸中にぶら下げていられるには、小生は年をとりすぎているのです。
だから、できるだけ早くに、じぶんのなかで期待されているポテンシャルが
どれほどのものなのかをはっきりさせる必要があったのです。
それを具体的に手っ取り早く計る有効な手段は、ひとつ。実践です。
誤解を恐れずにもっと直裁にいってしまうと、実践していない人にはポテンシャルなど持てない。
これはかなりシビアな物言いですが、当を得ていると小生はかんがえます。
もし、じぶんのポテンシャルを信じ、それで何か(たとえば人の役に立つこと)をしようと
望んでいるのであれば、まずそれに見合うだけの実践を開始すること。していなければ、おかしい。
小生も、ようやくそこまでは学習しました。そして、蜆TuRe発刊の計画を立てはじめたのです。


三號を発行したタイミングで、蜆TuReを置いてもらっているお店を一件一件訪ねてまわっています。
今回はじめてご挨拶をさせていただくお店が大半です。
人との対話の機会を(それがどんなに大切な機会であったとしても)できるだけ先延ばしにしようと
するところがある小生にして、この度は、会って話せることの幸福を肌身に感じています。
その幸福は、つまるところ、愛というものにちがいありません。
隣人を愛するというときの、あの愛のことです。われわれは、かくも人間なのだという感情が
やわらかい波紋のように小生の心のみなもに浮き立つのであります。
そして同時に、その愛の深みを感じとるほどに、蜆は畢竟孤独なりという宿命におもいいたるのです。
そこまでわかれば、ようやく小生の動機も固まってくる。腹を据えるための用意もできる。
対話は、ときに、一個人が生きていく上で携えている動機に変更や棄却の必要を迫ります。
対話はじつに示唆に富んでいて、他者はいつでも暗示的です。
いちばん身に沁みるのは、いつも、愛のこもった他者の言葉なのですから。

手厳しくいわれれば、(小生はひとの愛に受け身になり過ぎるところがあって)
そのとおりにちがいない、ああじぶんはどうすればいいのだろうかと、悩んでしまうのですが、
こと小生に関していえば、悩まなくていいことで悩んでいるか、悩み方がまちがっていることが多い。
それで、「いったいこの蜆TuReは何のために誰のために発行しているのか」という肝心のブブンが
ブレてしまうことになるのです。
いま書いているこのくだりは、非常にホットな話でありますが、
そこのところがブレてしまうと、もう、愛もへったくれもなくなるわけです。
つまり、愛を失うということです。よかれとおもって置いてくだすっているお店のひとたちの愛、
そして毎號蜆TuReを楽しみにして買って読んでくれる読者のひとたちの愛を、です。
小生は今回のお店まわりで、ひとつ、知らされたことがあります。
すべてのお店ではありませんが、蜆TuReが動いているどのお店にも、
一人、必ずフアンがいるという事実でした。
たとえば、文の里にある居留守文庫のお客さまのなかに、Nくんという若い文学好きの青年がいて、
彼は身内を除いてこの世で一番最初に創刊號を買ってくれたひとです。
そして、二號も買って読んでくれたそうです。
しかも、それだけではありません。
本は人生のおやつです、という大阪では有名なお店があるのですが、
そこのお店がおこなった読者アンケート「今年のベスト3冊」に、
Nくんは蜆TuReをあげてくれていたのです。
居留守文庫の岸昆さんが、小生にアンケートの実物を見せて、そのことを教えてくれました。
これはほんとうにうれしかった。
それでこの話を家に持ち帰り、いろいろ話しているうちに、
小生が蜆TuReで為すべき仕事は、
もっと売れるようにと、
店頭に並んでいる他のリトルプレスのむこうを張って商品開発に勤しむことではなくて、
Nくんのような真摯な読者をがっかりさせないものをつくることなのだと気がついたのです。
小生はそれに気づかされ、溜飲が下がるとともに、感涙が込み上げてくるのを禁じ得なかった。

この極私的な一人文芸誌を、極私的な一人文芸誌であるにもかかわらず、
わざわざ選んで買って読んでくれるひとがいる。
小生がどんな人間なのかも、もちろんご存知ないし、何の義理もないのに、それでも、
新しい號が出たら買って読んでくれるひとがいる。
「そのひとのために書こう」
小生は、はじめて、そうおもいました。
いま、小生は、
そのひとたちに向けて、心からありがとうといいたい気持ちでいっぱいです。






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続 工場日記

その一 「痛み」

僧帽筋、脊柱起立筋、左三角筋、左手尺骨三角骨靭帯、胸鎖乳突筋…
これまでに労働をつうじて特に試練をしいられてきた主な部位たち。
なかでも胸鎖乳突筋の痛みには完全に参った。
ある夏の晩、寝ちがえる。首に経験したことのない激痛が走る。
数日前から頸部を中心に体の痛みをおぼえていたのであったが、
そこに、Liquorの過剰投与とその後のまずい体勢での寝入りが引き金となり、
トドメを刺されたかたちである。
首を回せない。寸分動かそうものなら、稲妻が走る。
そうなれば蚊の鳴くような声で泣くしかない。咀嚼もままならない。
患部を揉み揉み、なんとか読書ができるくらいまで回復したその日の晩、ふたたび激痛。
いよいよ万事休すと近くに整体院がないかを調べることに。
調べていくあいだに、寝違えのことがわかってくる。
どうも、寝違えというのは、
腋内側に走っている「腋窩(えきか)神経」が圧迫されて起こるようである。
寝違えて頸部に痛みを感じた多くの人は、首を揉んだり横に曲げて伸ばしたりするが、
これは一番行ってはいけないことなのだそうだ。
理由は、頸部の筋肉はいままさに炎症を起こし圧迫されている状態なのであって、
そこを揉めば圧迫に拍車をかけ、さらなる炎症を引き起こし痛みを悪化させるため、と。
やってはいけないことをやれば、治るものも治らない。
何かいい手はないものだろうかとおもいながらさらに調べていくと、対処法なるものを見つける。
腋窩神経を圧迫から解放してあげる有効な体操。

体操1
1. 背筋をのばし脱力。
2. 痛む側の腕を後方へ引き、少しずつ上げる。
(手首はだらりと垂らす)
2. 上がりきったところで、20秒キープ。腕をゆっくり戻す。(2セット)

体操2
1. 痛む側の手を腰に当てる。
2. 肘を後方へ引く。
3. 引ききったところで、20秒キープ。腕をゆっくり戻す。(2セット)

体操3
1. 痛む側の腕を手のひらを上にして肩の位置まで上げる。
2. 120度の角度で肘を曲げ、そのまま水平に後方へ引く。
(体はひねらず腕だけを後ろへ)
3. 引ききったところで、20秒ほどキープ。腕をゆっくり戻す。(2セット)

実際にやってみると、どうしようもなかった首の痛みが引いた。
ただ、いつあの痛みが再発するとも知れないので、しばらくは用心の日々を送ることに。

映像日記

2月14日 水
非番。復調。寒し。
週末ゴダール。インタビューや批評つまみ読み。ドゥボール。situs状況主義。インタビューは何より興味深い。
アンヌ・マリー=ミエヴィルとの共作『Comment ça va?』
ポルトガルで起きたカーネーション革命を下敷きに、「視線」についての考察が中心を流れている。
タイプライターの手を動きと文章を読む目の動きの類比。
視線を司るものは?「文章」。
画面に映し出されるタイポ文字のカーソルの動き。
文章はそれを読む(見る)視線の前で意志を持って動き、視線を監視している。
視線が文章を追うのではなく、文章が視線を追う。
映像を撮ることも映像を観ることも可能
だが、
そこにあるべき「視線」そのものを描くことは(可能かどうかというより)許されているのか?

「最後に、《俳優と観客の間にある映画》というタイポ文字のタイトルが、
 冒頭の《能動と受動の間にある映画》に打ち消された後消去され、
 カーソルだけが空しく動き続けて映画は終わる」(E/M Books 2)

文字を打つ作業と打たれた文字がそこに表象として写し出される現象とのあいだにあるものについて。
「文字を打つという作業」が、打つ人とは別の主体性で、何か別の作業を行っているという仮説に立って。
思考というものがどこから来て、その思考がどのように表象化するのか、
どのようにそれが可能なのかということについての考察へ。
司るものがあるとして。
それは打つ人の内部に?写し出される文字の側に?あるいは作業をする手に?
文字の(カーソルの)動きのほうに?
いずれもそうであってそうでない。
なぜならば、いずれかが司っているということはないから。それらは一貫して司られているといえないか。
物としての文字も文字の動きも作業する手も手を動かす意識や神経伝達の部門も、一貫して。
では何によって司られる?
その「何によって(あるいは、どうやって)」を探究する考察の上に哲学があり、
その探究の影響の上に心理学があり、その探究の質的転移(表象化)の上に芸術がある。
作業や現象が、それが可能になっていく(展開していく)過程で一貫して何かに司られているとするならば、
はじめに「受動ありき」ということがいえるのである。
能動は受動に後押しされていると(呼吸についておもいをめぐらしてみる。呼吸はまず「吐く」ありき。

みな、地球。

年始に買った築地書館の『土と内臓』(ほんとうにほんとうに面白い本)のおかげで、
幸運なことに、私のなかに微生物への愛が芽生えた。
もともと微生物に愛着はあったけれど、いよいよ全身全霊で愛していこうとおもう次第。

今回の蜆TuRe(第七號)は、海と転生というテーマでひとつ書いてみた。
ちなみに今回はタイトルが長い。
『急げブランキゆるやかに この途方もない軽さのうえへおもいをはせよ』
なんとなく、ヘンリミラーの『ビッグ・サーとヒエロニムス・ボッシュのオレンジ』みたいなアップテンポの語感がほしかった。
それはさておき、これを書いている最中、プランクトンに友情を抱き、
その友情に乗り入れるかたちで、深い微生物愛が芽生えたのだ。

なによりもまっさきに地球のことを考えたい。どうもこのごろは、そういう心情から離れられなくなりつつある。
都民ファースト都民ファーストと東の方からは聞こえてくるが、いやいや地球ファーストだろう。
この地球上のどこを切っても微生物が躍動している。土の中、海の中、空の中、さらには動物の体内までも。
微生物はいわば地球の原住民である。
はるか昔、地球の中核で煮えたぎるマグマにもっとも近い海底の墳気孔で古細菌が生まれた。
想像を絶する高温の湯に浸かりながら、酸素をいやがる嫌気性の古細菌は、
酸素をこのむ好気性の細菌との結婚のときをじっと待ち、来たるべき原生動物の誕生にそなえていた。
それから何十億年もたって、真核細胞は植物を生み、動物を生み、生命の一部は海から陸へと上がっていった。
地上では、堅い岩が気の遠くなる時間をかけて砕け、そこに動物微生物の死骸が積もり、やがて豊かな土になった。
そうやって積み重ねられた長い長い建設作業の末に、生命の原初的な土台が築かれたのである。
その歴史的事情をわきまえずに、のうのうと地球で暮らしていくのは、私はいやなのだ。
それは、なんておこがましい、なんてまずしいことか!
「私はおなかが空いた!私は飯を食いたい!」
そういって食欲を振りかざすこの私という存在は、まちがいなくこの地球で暮らしている。
そしてこの私の体のなかでは、生命の大先輩である微生物たちが暮らしているのである。
たとえば牛の体のなかはどうだろう。
牛は草を食べ、それを胃と口のあいだで何度も反芻する。
この反芻に、牛が生き延びていく上でとても重要な秘密が隠さ…