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キューピー誤植事件




先にもうゆってしまおう。
これは、三号の刷り上がりに誤植を見つけてしまったときの話である。
読者のみなさまには、誤植を訂正したものをお渡ししているはずなので、ご安心を。
三号の小品は、P(ぴー)ちゃんとQ(きゅー)ちゃんのふたごが出てくる。
前半はPちゃんしか出てこない。中盤、Qちゃんが出てきて、さいごにPちゃんとQちゃんがこんにちはする。
ところが、Qちゃんがまだ出てきてはいけない前半のおわりに、「Q」の字を1つ見つけてしまったのだ。
つまり、「P」と書かれていなければならない箇所が、1点だけ「Q」になっていたのである。
思わず目を疑った。汗がどっと出た。
こんなまちがいに、気がつかないはずがないからである。
そして、まさかこんなまちがいに、こんなタイミングで出くわすとは、夢にも思わなかったからである。
えッ?(ちょっと待て…)えッ?(ちょっと待て…)えッ?
と、こんなのを4回くらい繰り返して、ようやく「あ、やったな」と観念したのである。
定期読者のみなさんにお送りする分と、取り扱い店の方々にお渡しする分を、すっかり揃えて、
(封もしちゃって)あとは封筒に切手を貼るだけという段になって、信じられない誤植を発見してしまった。
「P」と「Q」の逆転なぞは、もっとも見落とすはずのない箇所である。
というか、文責としてあるまじきミステイクだ。だ、だ、だ。
WHY?
いつどこで?
わたしは、初校が上がってくる前の元原稿をひらいてみた。
「はい、やった」
案の定、元原稿ですでにまちがっていた。
つまり、そのあと、二校三校と赤入れをしている最中も、まったく気がつかなかったということだ。
バカか。トンマか。おたんこなすか。
なッ さけねえーー、の一言である。
でも、しょーがない。みなさまのお手元に渡る前に奇跡的に気づけただけ、よかった。
で、どうする?
「Q」の文字の上から「P」を貼っつけるまでだ。
どうやって?
予備を使い、ひたすら「P」の字だけをいっこいっこ摘出するんだ。
「了解。」
もう夜中だったが、すぐに作業に取り掛かり(途中で少し寝て明け方また起きて)、
朝までに当座必要な約「60P」の摘出および縫合手術を完了した。
そのまま、昼過ぎくらいまで、追加「60P」分を摘出し、縫合した。
やるたびに作業がスムーズになっていく。もはや、職人芸だ。(ここは笑うところです)
4mm角から5mm角にカッターで四角く切り取った「P」片を、「Q」の字の上から貼りつけていく。
じつに単純な作業ではあるが、切り取りがうまくいかないと時間を食ってしまう。
糊付けがまずくても、だめだ。
ほんとうにおれはバカだ、とおもいながら黙々と作業をやる。
なんてことだこりゃ、返す返すも信じられない、文字屋失格だ、とかブツブツいいながらやる。
けっきょく、全部で「120P」分の作業を終えた。
で、まだ「80P」残っている。でも、たぶん売れずに在庫として残るだろうから、
このまま作業はしないでお蔵入りになるだろう。

それにしても、である。
いったい、なぜ気がつかなかったのだろう。
最終校正の段階では、音読を二度行っている。
なぜ見落としたか。
見落としたことにはまちがいない。
ただ、問題は、その見落とし方にある。
つまり、文字を追っていく段階で、意識が完全に「文意」に回収されてしまってて、
文意から独立して、物体としての「文字ヅラ」だけを見るチェック機能が働いていなかったのだ。
文字を読んでいるが、文字を見られていない。不思議な話だが、そういうことなのだ。
目がスルーする以前に、脳がスルーしてしまったのである。
プロの校正は、逆さから読んで校正すると聞いたが、なるほどそうかとおもった。
でも、逆さから読もうが、どうしようが、書き手本人には気がつかなかったかもしれない。
今回は、名前をこらずに、あえてシンプルなものにしようとしてアルファベットひと文字の
「P」「Q」としたのであったが、こんなハプニングが待っていようとは思いもよらなかった。
でも、よく気がついた。
じつは、夜中、布団を敷いてぼちぼち寝るべしと思ったころ、
ふと座卓の上にあったじぶん用の三号を手に取り、おもむろに頭から読み返してみたのである。
それで、おそらく普段はすらすらと(見事に何の疑いもなく)読みすすめていたであろう、
その誤植のあった箇所の前あたりで、ふと読むスピードを落としたのだった。
表現が気になったからである。
気になったというのは、これってこう書いてあるけど、どういう感覚なんだろうかと
少し実際的に頭のなかで再現してみたくなったのだ。
その表現に掴まったことによって落とすことのできたスピードのまま、問題の箇所に差し掛かった。
で、発覚した。
いつものスピードと意識であれば、このときも同じように見過ごしていたはずである。
まちがいを見つけたというより、そこにぶわんと現れ出たといったほうがピッタリくる。
いままでどこに隠れとったん?
そういう感じだった。


兎にも角にも。なまじ、早くに原稿が上がったときというのは、どこかに油断が生じているのだろう。
それも、今回学んだ教訓のひとつである。
といってるそばから、じつは次号四号の原稿も早いピッチで出来上がりつつある。
どうぞ、キサマ、しっかりして下さい。











コメント

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映像日記

2月14日 水
非番。復調。寒し。
週末ゴダール。インタビューや批評つまみ読み。ドゥボール。situs状況主義。インタビューは何より興味深い。
アンヌ・マリー=ミエヴィルとの共作『Comment ça va?』
ポルトガルで起きたカーネーション革命を下敷きに、「視線」についての考察が中心を流れている。
タイプライターの手を動きと文章を読む目の動きの類比。
視線を司るものは?「文章」。
画面に映し出されるタイポ文字のカーソルの動き。
文章はそれを読む(見る)視線の前で意志を持って動き、視線を監視している。
視線が文章を追うのではなく、文章が視線を追う。
映像を撮ることも映像を観ることも可能
だが、
そこにあるべき「視線」そのものを描くことは(可能かどうかというより)許されているのか?

「最後に、《俳優と観客の間にある映画》というタイポ文字のタイトルが、
 冒頭の《能動と受動の間にある映画》に打ち消された後消去され、
 カーソルだけが空しく動き続けて映画は終わる」(E/M Books 2)

文字を打つ作業と打たれた文字がそこに表象として写し出される現象とのあいだにあるものについて。
「文字を打つという作業」が、打つ人とは別の主体性で、何か別の作業を行っているという仮説に立って。
思考というものがどこから来て、その思考がどのように表象化するのか、
どのようにそれが可能なのかということについての考察へ。
司るものがあるとして。
それは打つ人の内部に?写し出される文字の側に?あるいは作業をする手に?
文字の(カーソルの)動きのほうに?
いずれもそうであってそうでない。
なぜならば、いずれかが司っているということはないから。それらは一貫して司られているといえないか。
物としての文字も文字の動きも作業する手も手を動かす意識や神経伝達の部門も、一貫して。
では何によって司られる?
その「何によって(あるいは、どうやって)」を探究する考察の上に哲学があり、
その探究の影響の上に心理学があり、その探究の質的転移(表象化)の上に芸術がある。
作業や現象が、それが可能になっていく(展開していく)過程で一貫して何かに司られているとするならば、
はじめに「受動ありき」ということがいえるのである。
能動は受動に後押しされていると(呼吸についておもいをめぐらしてみる。呼吸はまず「吐く」ありき。

infra-mince考/『マルセル・デュシャン、メモ』No.10をめぐって

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「いま、僕は諸君に向かってこうやってマイクでしゃべってます。僕の後ろには、ホワイトボードがあって、そこには
何か文字が書かれてる。で、ここで僕がこう、ホワイトボードのほうを振り返る。そうすると、諸君のほうを向いて
喋っている僕は、ホワイトボートのほうへ体を向ける僕へ移っていく、入れ替わっていくわけですね。そのときに、
いい?そのときに、喋っている僕と、何か書こうとして振り向くホワイトボードとの〝間〟に、何があるか、ということ
なんです。いい?そこを知りたいわけです。僕とホワイトボードの〝間〟がどうなっているか。」

数多く聞いた興味深い話のなかで、この話はいまでも私の記憶のなかに視覚情報と一緒に残っている。
「間 あいだ」というのは、Seigow氏がとても重要視している見方で、精神科医であり哲学者の木村敏さんも、
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だから、なおのこと、言語化をする手前で据え置きしたいという気持ちがあったのである。
分かったようなつもりで口にしたくなかったのだと思う。


私がここで、わざわざこの〝間〟という言葉を引き合いに出すのは、
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infra-mince/アンフラマンス
(infra-:「下部、下方」の意をあらわす接頭辞 mince:「薄い」)

岩佐鉄男氏によって、「極薄」と訳されたM.デュシャンの物の見方である。
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 この意味を的確に言いあらわす日本語をうまく思いつかないので、この訳稿では《極薄》という語をあてているが、
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蜆がゆく! たけうま書房さん(横浜)/汽水空港さん(鳥取)/古本 冬營舎さん(島根)

ただいま蜆は、たびかさなる細胞分裂をくりかえし、
じょじょに〝二号〟になろうとしておるところであります。


だいぶ間があいてしまいましたが、
あらたに3つの店舗で蜆TuReを取り扱っていただけることになりました。

ひとつは、横浜市中区にありますたけうま書房さん。
創刊号に掲載した短編が小学校をぶたいにした話でしたので、
ぜひ横浜の(小生はハマっ子でした)お店にも、ということで置いていただいています。

それから、鳥取県松崎の東郷池のほとりにたたずむ汽水空港さん。
ぼくは、ここの店主のモリテツヤさんのファンになりました。
踏み込んでいえば、いろいろ影響されたい(とおもわせてくれる)ひと。
モリさんは、ちょっと抜けてる、つまり、
感性がズ抜けている、あるいはひょうげているといったらいいでしょうか。
そういう感じが個人的にいたします。

そしてそして、島根におわす古本 冬營舎さん。
ぼくがいちばん置いてもらえたらうれしいのになあ、とおもっていたお店であります。
なぜそんなにうれしいか?
冬營舎さんは、シジミの日本一の産地であるあの宍道湖をのぞむお店なんですね。
もちろんヤマトシジミです。
いわばシジミの古里、いやシジミのトポスといっていいすぎることはありません。
シジミの縁。に感無量。
こちらのページでさっそくご案内くださっていました。店主さまありがとうございます)

前にもぼくは書きましたが、シジミがとれるのは汽水域です。
汽水域。あれちょっと待てよとおもい、東郷池は汽水域なのではないかと調べてみると、、
やはり。東郷池は汽水湖でした。
あ!だから、「汽水空港」という名前なんだ!とそれで気がつく鈍感なぼくです。
モリさんにおたずねしたら、東郷池でもシジミがとれるとのことでした。
なんと!すごいすごい。
日本列島ひろしといえど、シジミのとれる地域はかぎられているんですし、
まして、古書店さんがある地域はもっとかぎられているわけですから、
んー、、心がおどります。

では、たけうま書房さんはどうだろう、、とためしに調べてみますと、
ここがなんと大岡川と横浜港とが合流する汽水域に近かったのであります。


シジミがシジミをさそい、蜆TuReは日本列島を縦断していく、、と。
蜆よ、ゆけ〜!