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1号派? or 2号派?





蜆TuRe、読者のタイプが1号派と2号派に大きく分かれた。

1号派は、どちらかというと、ガチな芸術ヨリ。2号派は、どちらかというと、ザックリの芸能ヨリ。

ここで勝手に具体例として引き合いに出させていただくと、

居留守文庫の岸昆さんは「1号派」で、汽水空港のモリさんは「2号派」である。

岸昆さんを含め、1号派は2号をあまり評価していない。

対して、2号派は、1号がいまひとつピンときていない。

こういう傾向が、ある。

1号をぼろんけちょんに叩いたとある友人は、2号を手放しで絶賛した。

岸昆さんが、2号の出来を1号に比して「後退」という言葉であらわした。

当の本人はといえば、

1号と2号とでやったことのちがいはわかっているので、

そのちがい分、ウケが変わったのだろうとまずはおもう。

1号は、あれは蜆カラーをそのまま出した小品である。おそらく、そういっていいとおもう。

で、2号だが。2号は、「こういうのはふつうオレは書かない」というのをやろうとおもってやってみた。

2号では、ほんとうは別の作品を予定していて、

直前までかなり詰めていたのだが、泣く泣くボツにし、『ブラックバック』になった。

2号を、ああいう、いくらかキャッチーなテーマに選んだのにはワケがある。

ひとつは、1号を読んだ読者の反応がうすかったこと(表紙の反応は頗るよかった)から、

どうも『揚げパン』は読みづらいのかもしれないと書き手のわたしは感じた。

せっかく定期購読してもらっている以上は、読み物として少しは満喫できるものでないと

いかんだろうという反省もあった。

それでまア、その時局のうんぬんは置いておくとして、

去年の暮れは、わたしが大杉栄の自叙伝に惚れ込んでいたこともあり、

往年くすぶっていたピストル的なものへのあこがれを一丁注ぎ込んでやろうと決めたのだ。

ではひとつポップな路線でやってみよう。

それで出来たのが、2号の『ブラックバック』である。


で、だ。

2号の反応がおもいのほかよかったことに、わたしはどう感じたかというと、

はっきりいって、あまりうれしくなかった。イヤだなとおもった。

「話として読めた(読んでもらえた)」という点においては、

「ああよかった、オレの書く日本語はちゃんと日本語だったんだ」と安堵し、よろこんだ。

だが。

わたしは、エンタメをやるつもりは毛頭ない。

消暇読物をこさえるくらいなら、朝から晩までアルバイトに出かけた方がましである。

ところが、わたしは、2号でエンタメに振ってしまったわけだから、

やらなくていいことをやったともいえる。

そういうわけで、こりゃいかんとおもったわたしは、3号はふたたび1号にブンもどし、

蜆カラーにさらにバイアスをかけてやろうと決めた。

で、3号。

まず、文字組にこだわった。

出だしの数行を見たら、現代詩か何かとおもうかもしれない。

わたしは、もともと、言葉の意味性よりも、言葉が持つ音へのこだわりが異様に強い。

発声や発語(喃語、吃音、聾唖者の発語)にはじまり、音韻(母音と子音の音性)や

もっと突っ込んでいうと、言語の「呪能性」といったほうにかなり意識が向いている。

行き着くところは、おそらく、呪(まじな)いとしての言語ではないだろうか。

3号では、そのあたりの音的な意識を、少量入れてみようと(少量くらいしか入れられない)おもった。

全体、3号にはこれといった山がない。じめっと同じトーンがつづいていく。

ずずずと縫合し、ずずずと抜糸し、気がつけば糸の通った痕跡すら見当たらない。

ただ何ごとかがあったことをおもわせるわずかな余韻だけがそこに残るだけ。

そういう感じが、わたしにはとても自然なことで、

今回は、それをやってみたつもりでいる。

1号派は、まアこなして(読んで)くれるだろう。

2号派には、退屈をさせてしまうかもわからない。が、どうかひとつ、音の雰囲気だけでも味わってもらえたらと願う。


次、4号では、

1号派と2号派のどっちもが、満喫できるものを(出来るだけ)つくろうと目論んでいる。

さて、その目論見が成功するかどうかは、乞うご期待。

すでに、タイトルページのヴィジュアルは出来上がっている。

次号は、話の主題が音楽(音)にかかわるものになる。腹案は、ほぼ固まっている。






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