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5月, 2016の投稿を表示しています

ポエジーの呪法 /「ある予感」をめぐる短い談話

去年の夏は、折口さんを繙くチャンスにようやく恵まれ、
折口さんの詩や国学や「水の女」などの古代研究にほんの少しだけ触れることができました。

この初夏は、ブランショの復習と新たな学習の取り組みから、
分厚い気流に腰をかがめて入っていくようにして、
マラルメに近寄るであろう可能性を感じております。

そうして、いま、ぼくは、「ある予感」をふくらませるのです。

言葉というものが本質的に音声であることに考えが行き着き、爾来、
ぼくのなかで、言語芸術は「呪法」であることを免れないという思いが強くなってまいりました。
この思いは、あるひとつの経験を境に、決定的なものになったようです。
それは、ある舞台の観劇中に起こりました。
舞台終盤、暗転のあとに、二人の役者のセリフの掛け合いが突如はじまりました。
はじまるや否や、ぼくの体は、ほとんど自動的に(感情的にではないという意味合いで)、
まるで感電したかのように、掛け合いが放つ言葉の韻律に罹ってしまったのであります。
言葉の意味や内容や物語性は、そこではほとんど役に立たなかったように思います。
涙が滂沱のごとく溢れ出し、それをどうにも止めることができませんでした。
そのとめどない涙の流出は、ひとつの決定的な症状として、
とてつもない印象をともない、ぼくの体のなかに記憶されたのです。

ぼくのなかで、徐々に、しかし確実にふくらんでいく「ある予感」。
それは、ぼくの動機が「霊的なほう」へと赴いていくであろう予感です。
遅かれ早かれ、そのときは訪れるでしょう。
それも、なんとなくではなく、免れ得ない働きかけをともなって、なのです。
ぼくは、ここで、精神性の話をするつもりはありません。
霊的な体験をみずからに奨励するような類の話ではないのです。
そうではなくて、
言葉、言語芸術、あるいはもっと踏み込んでいえば、ポエジーの話をしようとしています。
「霊的なほう」へ。
これは、ぼく個人による要請ではなく、ポエジー側からの要請なのです。
だから、それを無視することができないのであります。
マラルメもまた、やはりその「霊的な」要請から免れ得なかった。
マラルメに見られるこの事情は、ポエジーを語る上で、極めて重要な傍証となるはずです。

ポエジーの読み取りは、音楽家が譜面を読み解く行いに似ています。
譜面を読めない素人にとって、音符の配列は暗号のような…

infra-mince考/『マルセル・デュシャン、メモ』No.10をめぐって

Matsuoka Seigow氏が、あるとき、少人数を対象に行った講習会の場で、こんなことをお話しされた。

「いま、僕は諸君に向かってこうやってマイクでしゃべってます。僕の後ろには、ホワイトボードがあって、そこには
何か文字が書かれてる。で、ここで僕がこう、ホワイトボードのほうを振り返る。そうすると、諸君のほうを向いて
喋っている僕は、ホワイトボートのほうへ体を向ける僕へ移っていく、入れ替わっていくわけですね。そのときに、
いい?そのときに、喋っている僕と、何か書こうとして振り向くホワイトボードとの〝間〟に、何があるか、ということ
なんです。いい?そこを知りたいわけです。僕とホワイトボードの〝間〟がどうなっているか。」

数多く聞いた興味深い話のなかで、この話はいまでも私の記憶のなかに視覚情報と一緒に残っている。
「間 あいだ」というのは、Seigow氏がとても重要視している見方で、精神科医であり哲学者の木村敏さんも、
この言葉を好んで使われている。私は、あまりに頻繁にこの言葉が使われている場面に触れすぎていたのと、
あまりに簡単に使えてしまう言葉であると思っていたこともあって、意図的に用いないようにしていた。
Seigow氏が、この言葉を通して、微妙きわまりないことを説明しようとしているのは、感覚的にわかっていた。
表現へ向かう私の動機が、そういう微妙きわまりない方面に隣接しているという自覚もあった。
だから、なおのこと、言語化をする手前で据え置きしたいという気持ちがあったのである。
分かったようなつもりで口にしたくなかったのだと思う。


私がここで、わざわざこの〝間〟という言葉を引き合いに出すのは、
マルセルデュシャン(Marcel Duchamp)が残した infra-mince という暗号のような造語について、
何かを言わなければならないと思ったためである。

infra-mince/アンフラマンス
(infra-:「下部、下方」の意をあらわす接頭辞 mince:「薄い」)

岩佐鉄男氏によって、「極薄」と訳されたM.デュシャンの物の見方である。
訳者の岩佐氏は次のように言及している。

 この意味を的確に言いあらわす日本語をうまく思いつかないので、この訳稿では《極薄》という語をあてているが、
 たんに「極めて薄い」というのではなく、ちょうど赤外線infrarou…

書いてみないとわからない。(それと、シジミの近況少しだけ)

蜆TuRe四号、おおむね調理をし終え、メニューが出揃った。
このあと、デザイナーのYさんに盛り付けをお願いするわけだが、ここからが意外と長い。

兎にも角にも、四号手前までやってきた。

何かをはじめるときは、誰だってそうだろうが、先のことはわからない。
創刊号を出したばかりのときは、「とりあえず四号までは出す」というのが当座の目標だった。
四号まで出すといっても、二号、三号、四号と何を出していくかはじぶんで決めるのであって、
ほんとうに出せるのかどうか本人にもよくわからないまま、目先の次号のことを考えていた。
気がつけば、次は四号が出る。早いものである。

どうやって話のネタを思いつくのかと聞かれることがあるが、
ぼくは、いわゆるネタ帳といった類のものをつくったことがない。
覚え書くらいは残しておくが、それもたいして当てにしていない。
ぼくの脳みそは、基本的にアナロジー向きで、
何かひとつのこと(あるいは言葉)を思いついたところから、ぱっぱっぱと連想が開始する。
たとえば、三号の場合は、「足を洗う」というタイトルを先に決めていて、
そのタイトル名から連想される話を下絵なしに書きはじめる。
話のなかみは、漠然と幽霊をやろうとおもっていたので、
少しひんやりとした手触りの文体がいいだろうなというあたりをつけて、筆をとる。
PちゃんとQちゃんの話を書く前に、じつは別の話を書いていたが、どうもだめなのでそれは捨てた。
(いつか、こういうボツ案ばかりを集めて、蜆ぼちゅーるという名前で作品集を出せたらとおもっている。)
前の話を捨てあらたに書き直す作業は、素潜りにたとえると、ちがう場所から潜っていく感じである。
気持ちの入れ方から潜り方まで、がらっと変える。
経験と感覚器官をたよりに、潮の流れを読みながら、上手に潜っていく。
潜っているうちに、潜る前に予想していた流れとちがう流れに出喰わすことは、よくある。
ウニをとろうとおもっていたつもりが、気がつくと狙ったことのないアワビに食指が動いていたりする。

結局、書いてみないとわからない、というのがぼくのスタンスだ。
書くという行いは、まさに書いている最中に生じているから、
どんな行いになるか(つまり、何をどう書くか)は、よし書くぞといって書きはじめてみるまではほぼ未知である。
頭のなかでは、なんとなく像や筋書きが浮かんではいるもの…

目と耳のはなし

DIALOGUE IN THE DARKというワークショップに、一度だけ参加したことがある。
完全な暗室状態をつくった部屋の中を何人かのグループで歩く。真っ暗闇だ。ただし、地面は平坦。
先導役は目の見えない方で、ぼくが参加したときは女性だった。
ぼくらは、彼女の声のナビゲートに従って彼女のあとをついて歩いていく。
声のナビゲートは、こういう具合である。
「はい、みなさん。この先に小さな橋がかかっています。一列になってゆっくり渡りましょう」
「いまみなさんの足元に籠が置いてあります。しゃがんで触れてみてください。籠の中には何が入っていますか?」
「大きなテーブルのある部屋に来ました。椅子がありますから座りましょう。椅子が見つかりましたか?」
頼りになるのは聴覚と触覚である。
真っ暗なので怖い。当然、参加者の足取りはいちじるしく遅い。
その中で、ぼく一人だけ嬉々としてすたすた先へ進んでいった、らしい。
いっしょに参加したうちの人が、後で振り返ってそう話していた。
なぜうちの人がそれをわかったかというと、
ぼくはナビゲーターのすぐ後ろを付いていて、彼女が投げかける質問にすぐに応じられていたからである。
つまり、だいたい彼女と同じくらいの速度で歩いていたということなのだ。じぶんでもそれは自覚があった。
籠のくだりでは、他の参加者はなかなか籠を見つけられなかったが、
ぼくはすぐに籠を見つけ、その中身がカボチャであることを彼女に伝えた。

一番印象に残っているのは、暗闇の中でビールを口にしたときの体験だ。
参加者はあらかじめ好きな飲み物を注文し、ナビゲーターの方が注文した通りのものをぼくらの手元に届けてくれる。
ぼくはそのこと自体には、特に驚きもしなかった。
それよりも、ビールの入ったグラスを口に近づけた時、酵母の匂いがしたことに驚いた。
それまで酵母の匂いなど感じたこともなかったからである。
ふだんそこまで敏感に匂いを嗅ぎとらないのは、おそらく味覚が優先されるためだろう。
しかし、暗闇ではふだん発揮されない臭覚が働いた。
この発見は、ぼくを大いに喜ばせた。臭覚というものにはじめて出合ったような気さえした。
そして、ビールの味はいつもの何倍もビールらしく感じられた。

このエピソードは、ぼくが「視覚派の生き物ではない」ということを証明するための傍証である。
じっさいに、ぼくは「…

よろしく、スパーク!汽水空港byモリテツヤにとどける自由の紙

芝居に、「当て書き」というのがある。
あらかじめ役者を決めておき、その役者に当てはめて台本を書く。
A子にはこんなセリフを、B子にはこんな動きを、というふうに役者のイメージに合わせて
ト書きやらセリフを書いていく。
ぼくは、この当て書きというのがとても好きだ。
かつて劇団を立ち揚げ、一度だけ芝居を打ったことがある。
その芝居で出てくるスチェパンチコヴォよしをという人物は、完全に当て書きだった。
手紙を書くときも、手紙を出す相手に合わせて文体を変える。
人と話すときも、やはり、話し相手に合わせてトーンやモードは変わる。
いうならば、カメレオンのようなものだ。
相手の色に合わせて、こっちの色を好きに撰択する。
その日の気分や天気で、どの服を着るかを決めるのと同じである。
音楽でいえば、即興のセッション。そのときどきの風向きでリズムもメロディーも変わる。

たぶん、ぼくはじぶんが思っているよりも、人のことが好きなのだろう。
じぶんの目の前に、じぶんと何らかの関係性を持つ誰かが立っていれば、
その相手に対して「その人がその人である」という必然性を感じ取ろうとするし、
じぶんと相手とのあいだから何かとっておきの必然性を引き出しておきたくなる。
人といると、どうもそういう気持ちが先立つようだ。
それをどこまで表に出すかどうかは別としても。

熱しにくく冷めやすい。もっぱら、じぶんではじぶんのことを、こう思っているところがある。
だが、見方によっては、どうもぼくは、案外、超熱しやすく冷めにくい性分であるともいえるのだ。
それも、人の熱量を借りて熱するパターンが多い。
熱は細く長く引き延ばされた熱線となり、からだの深くに釣瓶のように降りていく。
そうして、からだの奥底で炭火のように燻りながら熱を放ちつづけるのだ。
あるとき、その燻っていた火種は何らかの条件をともなってスパークする。
どうも、そういった一現象がぼくという生態のなかには見受けられる。

前置きが長くなった。
今回は、ある人物の熱量を借りて、あるものを即興でつくった。
ある人物とは、鳥取松崎の自由人モリテツヤ氏だ。
モリ氏は、東郷池のほとりで「汽水空港」という自前の店を構えている。
小屋から棚から、何でも全部じぶんでこさえる。畑も耕す。肥料もつくる。
彼は、溢れ出す好奇心と飽くなき冒険心にもとづいて、つど、直感で動く。
気…

あゝ ヒューマニティー!

いま(=三號が出たタイミング)になって、なんとなくわかってきたこと。

それは、
蜆TuReを置いてくれるお店の人たちの、類まれなヒューマニティー。
ヒューマニティーといっても、人情のことをいいたいのではない。
むしろ、人の持つ感度というか、臭覚というか、虫の知らせというか、
そういうかなりぼんやりとした属性のほうをいいたいのである。

蜆TuReは、もし分類をするならば、
リトルプレスとか、ZINEとか、そういう割りかしお洒落系だったりサブカル系のジャンルに該当する。
創刊號を出した当初、つくった本人は、いったいこれが何なのかさっぱりわからなかった。
居留守文庫の岸昆さんは、「こういうのはZINEを扱ってる店に置いてもらえる」といった。
たまたま通信網で見つけたblackbird booksのページには、「リトルプレス」という項目があった。
ようは、ぼくは蜆TuReをつくった時点では、ZINEもリトルプレスという流行りの呼び名も
てんで知らなかったということである。
ぼくは、文芸誌を名乗っているが、
この冊子、いわゆる一般に文芸誌と呼ばれる媒体ほど、内容は充実していない。
文芸誌というより、個人作品集といったテイである。
もっときびしいことをいえば(実際にいわれたが)、
今日び、フリーペーパーでも蜆TuReレベル(あるいはそれ以上)の冊子ものが
出回っている。
というのが、当座、一般的な市場だそうだ。

それは、一旦了解。

ここでぼくの立場をはっきりさせておくと、
ぼくは市場は気にしない。無関心でもない。でも、気にしない。
ぼくが気にしたいのは、
あるいは気にするべきなのは、
置いてくれるお店とそのお店にやって来る読者のことにほかならない。
ホホホ座の店主山下さんがいみじくも指摘されたように、
蜆TuReは「個人作品集」なのであって、そもそも商品価値を付帯させることを第一に
考えてはいないのである。
もちろん、デザイナーのYさんはお店に並ぶことを想定し、あれこれ考えてデザインをしてくれた。
だが、デザイン以前の、この物体が持つ性格のことを見落としてはならない。
いわば、この物体はまだ、有り体にいったら蜆不水という一無名作家の存在証明に如かない。
「こういう存在証明証を発行したのでみなさんに認知してもらいたい」。
これが、この蜆TuReという物体が目下達成すべき第一の目…