いま(=三號が出たタイミング)になって、なんとなくわかってきたこと。
それは、
蜆TuReを置いてくれるお店の人たちの、類まれなヒューマニティー。
ヒューマニティーといっても、人情のことをいいたいのではない。
むしろ、人の持つ感度というか、臭覚というか、虫の知らせというか、
そういうかなりぼんやりとした属性のほうをいいたいのである。
蜆TuReは、もし分類をするならば、
リトルプレスとか、ZINEとか、そういう割りかしお洒落系だったりサブカル系のジャンルに該当する。
創刊號を出した当初、つくった本人は、いったいこれが何なのかさっぱりわからなかった。
居留守文庫の岸昆さんは、「こういうのはZINEを扱ってる店に置いてもらえる」といった。
たまたま通信網で見つけたblackbird booksのページには、「リトルプレス」という項目があった。
ようは、ぼくは蜆TuReをつくった時点では、ZINEもリトルプレスという流行りの呼び名も
てんで知らなかったということである。
ぼくは、文芸誌を名乗っているが、
この冊子、いわゆる一般に文芸誌と呼ばれる媒体ほど、内容は充実していない。
文芸誌というより、個人作品集といったテイである。
もっときびしいことをいえば(実際にいわれたが)、
今日び、フリーペーパーでも蜆TuReレベル(あるいはそれ以上)の冊子ものが
出回っている。
というのが、当座、一般的な市場だそうだ。
それは、一旦了解。
ここでぼくの立場をはっきりさせておくと、
ぼくは市場は気にしない。無関心でもない。でも、気にしない。
ぼくが気にしたいのは、
あるいは気にするべきなのは、
置いてくれるお店とそのお店にやって来る読者のことにほかならない。
ホホホ座の店主山下さんがいみじくも指摘されたように、
蜆TuReは「個人作品集」なのであって、そもそも商品価値を付帯させることを第一に
考えてはいないのである。
もちろん、デザイナーのYさんはお店に並ぶことを想定し、あれこれ考えてデザインをしてくれた。
だが、デザイン以前の、この物体が持つ性格のことを見落としてはならない。
いわば、この物体はまだ、有り体にいったら蜆不水という一無名作家の存在証明に如かない。
「こういう存在証明証を発行したのでみなさんに認知してもらいたい」。
これが、この蜆TuReという物体が目下達成すべき第一の目標なのである。
そういう意味では、四六判16ページというボリュームのこの冊子は、いわば、
「少しサイズの大きくてやや厚みのある名刺」と考えてもいい。
そのやや大判の名刺に、ぼくは値段をつけた。買って読んでもらうために。
身銭を削って(たかだか300円だが、されど300円だ)わざわざこの無名の冊子を
「買う」というその行動に、意味がある。
それは、気楽な行動ではない。チラシやパンフを気休めに持って帰るのとは、全然ちがう。
だって、蜆TuReを「買う」ということは、蜆TuReに「関与する」ということにほかなるまい。
つまり、蜆TuReを買うお客さんは、蜆TuReにおいて、その責任の一端を担うわけである。
これ、とんでもないことなのだ。
しかし、そのとんでもないことが、げんにお店で起きている。
ぼくの知らない誰かが、蜆TuReにお金を払い、持ち帰ってくれている。
ぼくは、この事実に強烈に何かを感じざるを得ない。
同じように、
蜆TuReを取り扱ってくださるお店も、必然的に蜆TuReに責任を負うことになる。
大げさにいうならば、
お店の方々は、責任を負ってまで蜆TuReを店に置くことを選択してくれたということなのだ。
ぼくはこうして、いくつものお店のご厚意に甘んじている。
むろん、門前払いを食らうお店もたくさんある。だが、むしろ、そっちのほうが当たり前なのではないか。
こんな存在証明書みたいな冊子を置いてくれるお店のほうが、珍しい。
売り物をお店に置いてもらえると、じぶんの力で実現したものとおもいがちだが、
置いてもらえたのは、じつは、お店の人の力、お店の人のヒューマニティーであるということを忘れてはならない。
そう、ヒューマニティー!
お店の人は、たとえ少量であっても、この冊子に何かを感じ取ってくれた。
だから、お店に並べてくれたのだ。
ぼくはようやっとそのことを実感できている。
いくらぼくが理屈と情熱を注いで説得し倒し、置イテクダサイオ願ヒシマス!と声を枯らして叫んでも、
何も感じなかったらお店に置いてはくれぬ。
何か。
その何かが蜆TuReを生かしているというふうにおもえる。
その「何か」を感じれば感じるほど、書き手としてぼくが蜆TuReに負うべき責任はどんどん分厚くなっていく。
ここまでくると、もはやこの冊子は蜆不水という一個人の存在証明書では済まされなくなるだろう。
ならば、ぼくは、その何かを守り育む必要がある。
では、その「何か」とはなんだ?
それは、「期待」である。
少量ながらも、かくじつに、読者やお店の人たちからの「期待」が見え隠れしはじめているのだ。
ぼくはそれをどうにも無視することができない。
号を重ねるごとに、微妙に(しかしかくじつに)ステージが変わっていく。
求められる「期待」の種類や強弱にも幅が出てくる。
その、まだ正体のはっきりしない「期待」に応えていくには、
出来得る限りのチャレンジに、いま持っているサイズの力で、目一杯取り組むことだろう。
出鱈目でもいい。やって玉砕なら、それでもいい。やらないよりはマシである。
そんなわけで、フリーペーパーなるものをこしらせてみた。一日と半日をかけた。即興ペーパーだ。
レティシアさんにも、トンカさんにも、なんか宣伝ツールがあったらいいよねといわれていた。
ぼくは、宣伝が苦手である。だから、はじめはピンとこなかったし、なんか重いなあイヤだなアとおもっていた。
それが、トンカさんと話しているうちに、ぱあっと楽になった気がしたのである。
トンカさんは、作り手の生の声を聞きたいんですよ、とおっしゃった。制作秘話とかあれば、お客さんにもいいやすい、と。
話しているうちに、なんとなくわかってきたような気がしていた。
で、レジ前に置いてあったトンカ新聞(トンカさんが毎月お出しになっている手書きのA4二つ折りのふつうの紙)を
持って帰り、それを眺めていると、さらにもう少しわかったような気がした。
「すげーザックバランなのだが、この新聞はかくじつにみんな毎号楽しみにしている」という感じがしたのである。
このテのものは、書き手のパーソナリティとかメンタリティとかが、もろに出る気がする。
だったら、いっそ、シジミももろに出してしまえばいいではないか。
こう開き直れたわけである。
さらっと開き直ったけれど、これはなかなかスゴイことなのだ、このぼくにとっては。
というわけで、びゃああああっと手書きと切り貼りでフリーペーパーをつくってみた。
とりあえずは、きっかけを与えてくれたトンカさんに感謝し、トンカ書店限定のフリーペーパーです。
フリーペーパー『蜆あむーる』 |
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