スキップしてメイン コンテンツに移動

目と耳のはなし




DIALOGUE IN THE DARKというワークショップに、一度だけ参加したことがある。
完全な暗室状態をつくった部屋の中を何人かのグループで歩く。真っ暗闇だ。ただし、地面は平坦。
先導役は目の見えない方で、ぼくが参加したときは女性だった。
ぼくらは、彼女の声のナビゲートに従って彼女のあとをついて歩いていく。
声のナビゲートは、こういう具合である。
「はい、みなさん。この先に小さな橋がかかっています。一列になってゆっくり渡りましょう」
「いまみなさんの足元に籠が置いてあります。しゃがんで触れてみてください。籠の中には何が入っていますか?」
「大きなテーブルのある部屋に来ました。椅子がありますから座りましょう。椅子が見つかりましたか?」
頼りになるのは聴覚と触覚である。
真っ暗なので怖い。当然、参加者の足取りはいちじるしく遅い。
その中で、ぼく一人だけ嬉々としてすたすた先へ進んでいった、らしい。
いっしょに参加したうちの人が、後で振り返ってそう話していた。
なぜうちの人がそれをわかったかというと、
ぼくはナビゲーターのすぐ後ろを付いていて、彼女が投げかける質問にすぐに応じられていたからである。
つまり、だいたい彼女と同じくらいの速度で歩いていたということなのだ。じぶんでもそれは自覚があった。
籠のくだりでは、他の参加者はなかなか籠を見つけられなかったが、
ぼくはすぐに籠を見つけ、その中身がカボチャであることを彼女に伝えた。

一番印象に残っているのは、暗闇の中でビールを口にしたときの体験だ。
参加者はあらかじめ好きな飲み物を注文し、ナビゲーターの方が注文した通りのものをぼくらの手元に届けてくれる。
ぼくはそのこと自体には、特に驚きもしなかった。
それよりも、ビールの入ったグラスを口に近づけた時、酵母の匂いがしたことに驚いた。
それまで酵母の匂いなど感じたこともなかったからである。
ふだんそこまで敏感に匂いを嗅ぎとらないのは、おそらく味覚が優先されるためだろう。
しかし、暗闇ではふだん発揮されない臭覚が働いた。
この発見は、ぼくを大いに喜ばせた。臭覚というものにはじめて出合ったような気さえした。
そして、ビールの味はいつもの何倍もビールらしく感じられた。

このエピソードは、ぼくが「視覚派の生き物ではない」ということを証明するための傍証である。
じっさいに、ぼくは「見る」という行為が苦手でありつづけてきた人間だった。
人の顔もまともに見られないような子どもであったし、昼間の太陽に照らし出された世界はぼくには眩しすぎたのである。
近くにあるもののほうが見やすかった。親しみやすかった。お陰様で、小学校二年生のころには早くも近眼の仲間入りをした。
おそらくぼくは、道を歩いていても下ばかり見ていたような気がする。そのほうが自然だったのだとおもう。
下ばかり見ていたから、ぼくのまつげが逆さまつげになったかどうかは定かではないが、
内向的な性格の形成に大いに貢献したことはまちがいない。
ついでにいえば、ぼくのなかに蓄えられている鬱っぽいセンスは、近眼と無縁ではない。
近眼でなかったら、暗い言葉のほうへはいかず、明るい絵のほうへいっていたかもしれない。
近眼でよかった。
ぼくを言葉のほうへ追い詰めてくれた近眼に、この場を借りて感謝する。

「触知」という言葉がある。この言葉の感じは、ぼくには実にぴったり来る。
ひとつの対象に対して、どんな種類の感覚を呼び出して接触をこころみるか。
生き物として生きている実感は、まさに、そこのアプローチの仕方において輝くのではないか。そんなふうにおもう。
生き物が外界と接触するさいに用いる感覚は、実に多様だ。
それら多様な感覚は、ひとつひとつの生き物が長きにわたってブラッシュアップしてきたものである。
生物関連の本や番組を見ていると、とても他人事とはおもえないせいもあって、見入ってしまう。
それに、どうでもいいニュースや映像を切り売りする報道番組より、よっぽど生きている現在に役立つ。
ちなみに、ぼくがこれまでに見知ったなかで、もっとも愛着と哀愁とダンディズムを抱かせる生き物は、
ダニである。ダニは動物の血を吸うためだけに、何年も樹のうえで待っている。
いよいよその時期が到来したとき(ダニは温度の変化で動物が近づいてきたことを察知する)、
ダニは一世一代の大ジャンプをみせるのだ。命がけの落下である。うまく動物の皮膚の上に着地すれば、成功だ。
腹を空かせに空かせたダニは、血をたらふく吸って、そして死ぬ。まるで、武士の如き生き様ではないか。
さて置き。
生き物は、あるひとつの刺激に対し、たいてい決まった反応をとる。人間も例外ではない。
歩いていてバンッと音がすれば、危機意識が働き、音のする方へ注意を向けると同時に身を守ろうとするだろう。
あるいは、向こうからヤバイけはいをした人物が近づいてきたら、
その人物に注意を払うと同時に、反射的に防御か攻撃のための姿勢をとるだろう。
それが、生き物が生き残っていくために必要な取るべき行動パターンである。
ところが、ぼくはこのパターンをあまり守ろうとしない。
たとえば、道を歩いていても、向こうから歩いてくる人に払うべき注意をあらかじめ捨てている。
注意を払う可能性を破棄しているわけである。
視覚は、優先される感覚としては最下層にある。
出来ることなら、何も見ないで済んだらいいとおもっている。
見ないで済ますかわりに、誰もじぶんの存在を見ないでくれたらなお良い。
お互いに見ることを放棄し合えれば、それに越したことはない。そんなことを純粋に望んでいる。
たぶん昔から内心そうやって過ごしてきたのだろう。
ぼくの意識に根深く内在する消失感覚(消失欲求)は、こういう感覚経験を通して育まれてきたものだとおもう。
ぼくという存在は、無を運ぶためのひとつの有運動に如かない−−−
そんな態度から、歩きながら本を読むという二宮金次郎エクササイズを実践したことがある。
対向してくる人(ときに車)を、視覚以外でとらえ(つまり前方に視線を送らずに)、
ぶつからないで前進する方法を会得した。(ただし、どんつきのT字路の壁にぶつかりそうになったことが一度ある)
つねに意識を手元の本と前方の道の中間くらいに置きつつ、視線は本の文字に落としながら歩く。
歩行スピードは結構速い。歩く速度と読書のスピードはだいたい比例する。
歩行がエンジンになって読書を促進する、といってもいい。
ぼくの感覚は、じぶんがほとんどそこに存在していないようになっている。

ここ数年、どうも、このような排外・内無化感覚ととでも呼べるような感覚側からの要請が、
からだのなかで一段と先鋭化しているようなのだ。
先鋭化が起きているところでは、その反面として、脆弱化が進む部分も併せ持つらしい。
存在を消していたがるぼくは、じぶんがその場にい過ぎる(または、周囲の人がじぶんにとってい過ぎる)と感じると、
失調を起こす。
浸透圧のバランスが崩れるようなものだ。そのことで、異常な疲労に見舞われることがたびたびある。
ぼくの場合、真っ先にやられるのが目で、虹彩や瞳孔まわりの伸縮機能が弱るか、視神経が摩耗するかで、
目の出来がいちじるしく悪くなり、ものを見ていられなくなる。
(三年前、右目の神経視野が摩滅しているため緑内障の恐れがあると診断された)
酷い場合は、首筋から顎、耳横、こめかみにかけてのリンパの流れが滞り、パンパンに張る。
こうなるともう降参。手がつけられない。横臥するよりほかになす術なしだ。
これはまア、一種のシステム障害の話であって、テーマから逸れるのでこの辺でよそう。


ぼくは、視覚派の生き物ではない。
そう。いいたかったことは、ここである。
では、何派なのか?
この質問に即答するのはむつかしいが、
ひとつ挙げるとすれば、「聴覚派」という答えを撰択したい。
目ではなく、「耳」。
別にぼくの耳が何か特殊な聴力を持っているわけではない。
絶対音感はないし、スピリチュアルメッセージを聞き取れるわけでもない。
だが、ぼくの感覚器官のなかで、
「耳」が担当する仕事がひとつの圧倒的重要性を帯びていることはまちがいない。
おそらくこの「耳」の仕事は、「言語」に深く関係しているものとぼくは考えている。
ここ何年かのあいだで、ぼくはそれを確信しつつある。
言語が、音と名辞の機能を持つというその意味性。
林檎という言葉には[ri-n-go]という音が与えられ、赤い果実を「りんご」と名辞することができる。
それはいったいどういうことなのか。この[ri-n-go]という音はいったい何なのか。
ぼくは研究者ではなく表現者なので、追求へ向かう情熱をどうにかして表現に向かわせたいとおもってしまう。
それで、この表現の試みを、エクリチュールとは別の方法でどうにか出来ないものだろうかという考えがあって、
仮にそのこころみに「間言語演劇」とか「間言語ポイエーシス」とかいう呼び名を与えた。
映像作品か舞台作品のいずれかを、ぼくはつくるだろう。
そしてその作品は、予兆に満ちた微分的エッセンスとテンスから成る何かとなるだろう。
ぼくは演劇に一度大失恋をしているから、もう失恋することへの怖れはない。

小さくてもいい。どうにか上手い具合に実現してみせたいものです。



コメント

このブログの人気の投稿

みな、地球。

年始に買った築地書館の『土と内臓』(ほんとうにほんとうに面白い本)のおかげで、
幸運なことに、私のなかに微生物への愛が芽生えた。
もともと微生物に愛着はあったけれど、いよいよ全身全霊で愛していこうとおもう次第。

今回の蜆TuRe(第七號)は、海と転生というテーマでひとつ書いてみた。
ちなみに今回はタイトルが長い。
『急げブランキゆるやかに この途方もない軽さのうえへおもいをはせよ』
なんとなく、ヘンリミラーの『ビッグ・サーとヒエロニムス・ボッシュのオレンジ』みたいなアップテンポの語感がほしかった。
それはさておき、これを書いている最中、プランクトンに友情を抱き、
その友情に乗り入れるかたちで、深い微生物愛が芽生えたのだ。

なによりもまっさきに地球のことを考えたい。どうもこのごろは、そういう心情から離れられなくなりつつある。
都民ファースト都民ファーストと東の方からは聞こえてくるが、いやいや地球ファーストだろう。
この地球上のどこを切っても微生物が躍動している。土の中、海の中、空の中、さらには動物の体内までも。
微生物はいわば地球の原住民である。
はるか昔、地球の中核で煮えたぎるマグマにもっとも近い海底の墳気孔で古細菌が生まれた。
想像を絶する高温の湯に浸かりながら、酸素をいやがる嫌気性の古細菌は、
酸素をこのむ好気性の細菌との結婚のときをじっと待ち、来たるべき原生動物の誕生にそなえていた。
それから何十億年もたって、真核細胞は植物を生み、動物を生み、生命の一部は海から陸へと上がっていった。
地上では、堅い岩が気の遠くなる時間をかけて砕け、そこに動物微生物の死骸が積もり、やがて豊かな土になった。
そうやって積み重ねられた長い長い建設作業の末に、生命の原初的な土台が築かれたのである。
その歴史的事情をわきまえずに、のうのうと地球で暮らしていくのは、私はいやなのだ。
それは、なんておこがましい、なんてまずしいことか!
「私はおなかが空いた!私は飯を食いたい!」
そういって食欲を振りかざすこの私という存在は、まちがいなくこの地球で暮らしている。
そしてこの私の体のなかでは、生命の大先輩である微生物たちが暮らしているのである。
たとえば牛の体のなかはどうだろう。
牛は草を食べ、それを胃と口のあいだで何度も反芻する。
この反芻に、牛が生き延びていく上でとても重要な秘密が隠さ…

工場日記1

毎朝、9時15分過ぎに工場の門をくぐる。
やれやれ、という感じでいつも。
工場といっても普通のオフィスビルと変わらない。自社ビルの一階がセンターの工場になっている。
タイムカードを押し、裏口から現場に入る。
配送業者が入荷した荷物を台車に積んでいる。
高く積まれたダンボール箱の壁を抜け、作業机の前へ。
荷物を足元に置き、鋏を道具棚から取り出し、
さてさてと手をさすりながら、仕事をとりにいく。
今日出荷予定の荷物の山から個口の大きいものを選び出し、
そいつをよっこらせと持ち上げて、持ち場へつく。
箱をあけ、中身を取り出す。
平均して一箱にだいたい40ヶから50ヶのモノが入っている。
箱の大きさによって異なるが、多いときは70ヶ。数十ヶの場合もある。
さっと検品しながら判型ごとに分けて机に置いていく。
数を数え、記録し終えたら、おもむろに椅子に座る。
ではまいります、と心のなかでつぶやきつつ、鋏を手に取る。
作業開始。
1ヶにつき切るべき箇所は4点。そこへひたすら鋏を入れていく。
切り取られた部位は、残骸となって足元に落ちていく。
鋏はピストル、そして残骸は空の薬莢。
黙々と、かつスピーディーに鋏を入れていく。
一日に何千という総数をさばく必要があるので、おのずとスピードが求められる。
ただ実際のスピードには個人差があり、判型によってもかかる時間は異なる。
私の場合は、だいたい1ヶにつき15秒から20秒といったところか。
4ヶで1分。40ヶで10分。検品に5分。作業後の判型揃えに5分。
一箱当たり、ざっと20分かかる計算である。
作業を終えたモノはつど所定の位置まで運び、すかさず次の箱に取りかかる。
この作業をひたすらつづける。

この4点切りの工程を作業Aとすると、
これとは別に、判型ごとに寸法を取り出す作業Bと、仕上げの工程に当たる作業Cとがある。
作業ごとにそれぞれ部隊があって、作業Cだけ素人とプロの二集団に分かれている。
作業AとBは、作業Cの前準備に当たる。ここで時間がかかると、作業Cにシワ寄せがいくので、
作業ABの進捗が遅いときは工場長の檄が飛ぶ。
労働者たちは、はじめのうちは作業Aに専念させられる。
そのうち作業Bも兼務するようになり、朝から作業Bにつく場合も出てくる。
ひと月もすれば、作業Cをさせてもらえるようになるようだ。
難易度は、ABCの順にあ…

SPICE IS THE PLACE!

このごろ、おれの精神の小屋は、スパイスやら薬味やらといったものでぷんぷんしている。
もともと漢方には関心があった。
や、関心というのではちょっと浅すぎる。もっと深いところでハートがくすぐられる何か。
医心方という江戸に書かれた漢方の本があるが、あれなんかめくってると、気分はサイコーだ。
古い百味箪笥がうちにある。漢方薬を入れる小引き出しが縦横にずらり並んでいるのだが、
昔はどの図書館にもかならず置いてあったカード目録の棚に感じが似ている。
引き出しの数は、横十一かける縦八で八十八杯。
ひとつひとつに薬味の名前がしるされたラベルが貼ってあって、それがなんともいい。
字面を見ているだけで、ワクワクする。
で、この引き出しを何に使っているかというと、いまのところは、
顆粒(かつおダシ、鶏がら)とか、かつお節とか、ダシ昆布とか、お茶とか、胡椒とかの在庫を
入れたりしている。なにせ八十八もあるので、ほとんど空。
いずれ、この百味箪笥がスパイスでいっぱいになるときがくるだろう。

スパイスにはさほど関心がなかった。カクテルに関心がないのと同じように。
おれが急にスパイスがかってきたのは、春の終わりから夏にかけてだ。
Sun Ra漬けの夏。SPACE IS THE PLACE SPACE IS THE PLACE、、。呪文のような。
昼の休みに読んでいたのは、ミシェルレリスのアフリカ日記。気分はアフリカ的魔術使い。
色がほしくて、身につけたくて、リネンの古着シャツを買いまくって、
いろんな色の石を買いあさって、
赤いものにハートが揺さぶられてしようがなくなって、トウガラシが無性に恋しくなって、
カレールーでカレーをつくりながら
そういえばこのカレー粉っていうのは何でできてるんだろうかとか気になりはじめて、
シナモン、レモングラス、コリアンダー、クローブという単語を見聞きしてると、
どうにもそわそわしてきて、もっと辛さを!なんて心のなかで叫びはじめて、
チリソースとかハバネロソースとかが台所に並ぶようになる。
じつは、スパイスがかるちょっとまえに、
ユングが来ていた。サイコロジーよりも、オカルティズム。赤の書のほう。
ふたまわりくらいして、ようやくおれもここへ帰って来れたとおもったものだ。
そんなフィーバーでもって蜆TuRe八號の必殺ワタナベ!なんかを書いたりするうちに、
ほんか…