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よろしく、スパーク!汽水空港byモリテツヤにとどける自由の紙




芝居に、「当て書き」というのがある。
あらかじめ役者を決めておき、その役者に当てはめて台本を書く。
A子にはこんなセリフを、B子にはこんな動きを、というふうに役者のイメージに合わせて
ト書きやらセリフを書いていく。
ぼくは、この当て書きというのがとても好きだ。
かつて劇団を立ち揚げ、一度だけ芝居を打ったことがある。
その芝居で出てくるスチェパンチコヴォよしをという人物は、完全に当て書きだった。
手紙を書くときも、手紙を出す相手に合わせて文体を変える。
人と話すときも、やはり、話し相手に合わせてトーンやモードは変わる。
いうならば、カメレオンのようなものだ。
相手の色に合わせて、こっちの色を好きに撰択する。
その日の気分や天気で、どの服を着るかを決めるのと同じである。
音楽でいえば、即興のセッション。そのときどきの風向きでリズムもメロディーも変わる。

たぶん、ぼくはじぶんが思っているよりも、人のことが好きなのだろう。
じぶんの目の前に、じぶんと何らかの関係性を持つ誰かが立っていれば、
その相手に対して「その人がその人である」という必然性を感じ取ろうとするし、
じぶんと相手とのあいだから何かとっておきの必然性を引き出しておきたくなる。
人といると、どうもそういう気持ちが先立つようだ。
それをどこまで表に出すかどうかは別としても。

熱しにくく冷めやすい。もっぱら、じぶんではじぶんのことを、こう思っているところがある。
だが、見方によっては、どうもぼくは、案外、超熱しやすく冷めにくい性分であるともいえるのだ。
それも、人の熱量を借りて熱するパターンが多い。
熱は細く長く引き延ばされた熱線となり、からだの深くに釣瓶のように降りていく。
そうして、からだの奥底で炭火のように燻りながら熱を放ちつづけるのだ。
あるとき、その燻っていた火種は何らかの条件をともなってスパークする。
どうも、そういった一現象がぼくという生態のなかには見受けられる。

前置きが長くなった。
今回は、ある人物の熱量を借りて、あるものを即興でつくった。
ある人物とは、鳥取松崎の自由人モリテツヤ氏だ。
モリ氏は、東郷池のほとりで「汽水空港」という自前の店を構えている。
小屋から棚から、何でも全部じぶんでこさえる。畑も耕す。肥料もつくる。
彼は、溢れ出す好奇心と飽くなき冒険心にもとづいて、つど、直感で動く。
気楽そうに見えて、無数の悩みを抱えている。大人しそうに見えるが、中身はやたらと賑やかだ。
ぼくは、モリテツヤ氏のフアンである。
彼には、ぼくを放っておかない何かが、いくつもいくつもある。気になって仕方がないのだ。
奇特なことに、お店のほうで蜆TuReを置いてもらえているので、
こないだぼくは鳥取まで足をのばし、モリ氏に挨拶をしにいった。
あの対面は、ミラクルだった。劇的だった。

はい。

モリ氏のことはいろいろ書きたい気持ちがあるのだが、
いろいろ書けるほど、ぼくはまだ、彼まわりのもろもろをしっかり学習できてはいないのだから、
とりあえずこのへんにしておこう。

フリーペーパー第二弾をつくった。汽水空港専用フリーペーパーだ。
一回つくって慣れたせいか、半日かからず、ちゃちゃっと出来上がった。
名前は「蜆あじーる」。
この名前も、汽水空港という店柄に合わせて考えた。
あじーるは、フランス語のasile。不可侵の聖域。どこにも属さない無縁所。
自由を守るための、自由へ向かうための、自由な場所とでもいっておこうか。
たくらみ、もくろみ。汽水空港には、そいういうものが細かく垣間見られる。
ぼくはそれを知っている。なんか知らないけど、勝手に知っちゃっている。
そういうわけで、「蜆あじーる」。つくってみた。
これで蜆TuReが少しは売れ出してくれればいいとおもう(片手で数えられるくらいは売れてるそうだが)。

では、モリ博士、こいつを松崎にお送りします。よろしくどうぞ。







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続 工場日記

その一 「痛み」

僧帽筋、脊柱起立筋、左三角筋、左手尺骨三角骨靭帯、胸鎖乳突筋…
これまでに労働をつうじて特に試練をしいられてきた主な部位たち。
なかでも胸鎖乳突筋の痛みには完全に参った。
ある夏の晩、寝ちがえる。首に経験したことのない激痛が走る。
数日前から頸部を中心に体の痛みをおぼえていたのであったが、
そこに、Liquorの過剰投与とその後のまずい体勢での寝入りが引き金となり、
トドメを刺されたかたちである。
首を回せない。寸分動かそうものなら、稲妻が走る。
そうなれば蚊の鳴くような声で泣くしかない。咀嚼もままならない。
患部を揉み揉み、なんとか読書ができるくらいまで回復したその日の晩、ふたたび激痛。
いよいよ万事休すと近くに整体院がないかを調べることに。
調べていくあいだに、寝違えのことがわかってくる。
どうも、寝違えというのは、
腋内側に走っている「腋窩(えきか)神経」が圧迫されて起こるようである。
寝違えて頸部に痛みを感じた多くの人は、首を揉んだり横に曲げて伸ばしたりするが、
これは一番行ってはいけないことなのだそうだ。
理由は、頸部の筋肉はいままさに炎症を起こし圧迫されている状態なのであって、
そこを揉めば圧迫に拍車をかけ、さらなる炎症を引き起こし痛みを悪化させるため、と。
やってはいけないことをやれば、治るものも治らない。
何かいい手はないものだろうかとおもいながらさらに調べていくと、対処法なるものを見つける。
腋窩神経を圧迫から解放してあげる有効な体操。

体操1
1. 背筋をのばし脱力。
2. 痛む側の腕を後方へ引き、少しずつ上げる。
(手首はだらりと垂らす)
2. 上がりきったところで、20秒キープ。腕をゆっくり戻す。(2セット)

体操2
1. 痛む側の手を腰に当てる。
2. 肘を後方へ引く。
3. 引ききったところで、20秒キープ。腕をゆっくり戻す。(2セット)

体操3
1. 痛む側の腕を手のひらを上にして肩の位置まで上げる。
2. 120度の角度で肘を曲げ、そのまま水平に後方へ引く。
(体はひねらず腕だけを後ろへ)
3. 引ききったところで、20秒ほどキープ。腕をゆっくり戻す。(2セット)

実際にやってみると、どうしようもなかった首の痛みが引いた。
ただ、いつあの痛みが再発するとも知れないので、しばらくは用心の日々を送ることに。

映像日記

2月14日 水
非番。復調。寒し。
週末ゴダール。インタビューや批評つまみ読み。ドゥボール。situs状況主義。インタビューは何より興味深い。
アンヌ・マリー=ミエヴィルとの共作『Comment ça va?』
ポルトガルで起きたカーネーション革命を下敷きに、「視線」についての考察が中心を流れている。
タイプライターの手を動きと文章を読む目の動きの類比。
視線を司るものは?「文章」。
画面に映し出されるタイポ文字のカーソルの動き。
文章はそれを読む(見る)視線の前で意志を持って動き、視線を監視している。
視線が文章を追うのではなく、文章が視線を追う。
映像を撮ることも映像を観ることも可能
だが、
そこにあるべき「視線」そのものを描くことは(可能かどうかというより)許されているのか?

「最後に、《俳優と観客の間にある映画》というタイポ文字のタイトルが、
 冒頭の《能動と受動の間にある映画》に打ち消された後消去され、
 カーソルだけが空しく動き続けて映画は終わる」(E/M Books 2)

文字を打つ作業と打たれた文字がそこに表象として写し出される現象とのあいだにあるものについて。
「文字を打つという作業」が、打つ人とは別の主体性で、何か別の作業を行っているという仮説に立って。
思考というものがどこから来て、その思考がどのように表象化するのか、
どのようにそれが可能なのかということについての考察へ。
司るものがあるとして。
それは打つ人の内部に?写し出される文字の側に?あるいは作業をする手に?
文字の(カーソルの)動きのほうに?
いずれもそうであってそうでない。
なぜならば、いずれかが司っているということはないから。それらは一貫して司られているといえないか。
物としての文字も文字の動きも作業する手も手を動かす意識や神経伝達の部門も、一貫して。
では何によって司られる?
その「何によって(あるいは、どうやって)」を探究する考察の上に哲学があり、
その探究の影響の上に心理学があり、その探究の質的転移(表象化)の上に芸術がある。
作業や現象が、それが可能になっていく(展開していく)過程で一貫して何かに司られているとするならば、
はじめに「受動ありき」ということがいえるのである。
能動は受動に後押しされていると(呼吸についておもいをめぐらしてみる。呼吸はまず「吐く」ありき。

みな、地球。

年始に買った築地書館の『土と内臓』(ほんとうにほんとうに面白い本)のおかげで、
幸運なことに、私のなかに微生物への愛が芽生えた。
もともと微生物に愛着はあったけれど、いよいよ全身全霊で愛していこうとおもう次第。

今回の蜆TuRe(第七號)は、海と転生というテーマでひとつ書いてみた。
ちなみに今回はタイトルが長い。
『急げブランキゆるやかに この途方もない軽さのうえへおもいをはせよ』
なんとなく、ヘンリミラーの『ビッグ・サーとヒエロニムス・ボッシュのオレンジ』みたいなアップテンポの語感がほしかった。
それはさておき、これを書いている最中、プランクトンに友情を抱き、
その友情に乗り入れるかたちで、深い微生物愛が芽生えたのだ。

なによりもまっさきに地球のことを考えたい。どうもこのごろは、そういう心情から離れられなくなりつつある。
都民ファースト都民ファーストと東の方からは聞こえてくるが、いやいや地球ファーストだろう。
この地球上のどこを切っても微生物が躍動している。土の中、海の中、空の中、さらには動物の体内までも。
微生物はいわば地球の原住民である。
はるか昔、地球の中核で煮えたぎるマグマにもっとも近い海底の墳気孔で古細菌が生まれた。
想像を絶する高温の湯に浸かりながら、酸素をいやがる嫌気性の古細菌は、
酸素をこのむ好気性の細菌との結婚のときをじっと待ち、来たるべき原生動物の誕生にそなえていた。
それから何十億年もたって、真核細胞は植物を生み、動物を生み、生命の一部は海から陸へと上がっていった。
地上では、堅い岩が気の遠くなる時間をかけて砕け、そこに動物微生物の死骸が積もり、やがて豊かな土になった。
そうやって積み重ねられた長い長い建設作業の末に、生命の原初的な土台が築かれたのである。
その歴史的事情をわきまえずに、のうのうと地球で暮らしていくのは、私はいやなのだ。
それは、なんておこがましい、なんてまずしいことか!
「私はおなかが空いた!私は飯を食いたい!」
そういって食欲を振りかざすこの私という存在は、まちがいなくこの地球で暮らしている。
そしてこの私の体のなかでは、生命の大先輩である微生物たちが暮らしているのである。
たとえば牛の体のなかはどうだろう。
牛は草を食べ、それを胃と口のあいだで何度も反芻する。
この反芻に、牛が生き延びていく上でとても重要な秘密が隠さ…