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谷中さんする四号





むかし、東京には谷中安規さんという芸術家がいて、その人は版画をたくさんたくさんつくっていた。
日本が戦争に負けると、焼け野原に粗末なバラック小屋を建てて住み、
にんにくを齧って暮らしていたのだけれど、栄養失調でついに死んでしまった。

ぼくは痩身で、だからかどうかはわからないが、
YOUを見てると谷中さんを思い出すのよ、とある人がぼくにいったことがあって、
それで、ぼくは谷中さんのことを知った。

谷中さんの想像力は、楽園と魔界につうじているとぼくは思っている。
グロテスクな顔とロマンティックな顔を、あの小さな紙の上で自在にあやつってみせる。
まるで、いつまでも曲芸を見せつづけるサーカスのようである。
その曲芸をささえる源の想像力は、百年かけても尽きそうにない。

一年に一度は、ぼくは谷中さんのことを気にかける。
で、ついこないだも谷中さんのことが気にかかり、今度は少し本格的に気にかけてみようと思って調べていると、
ちょうど兵庫で展覧会が開かれていることがわかって、足をのばしたのである。
その展覧会で、谷中さんが内田百閒の本の装丁の多くを手がけていたことを知って、おや、と思った。
というのも、
それより少し前に、ぼくは黒澤明の遺作「まあだだよ」をたまたま見ていた。
この映画は内田百閒のことを題材にしたもので、
ちょうど内田百閒のことがいよいよ気になりはじめていたころだったので、おや、と思った。
「ノラや」という素晴らしい随筆があることも、この映画のなかで知った(すぐれた随筆ほど、よい文学作品はない)。
そういうわけで、
谷中さんと百閒が、一度にどどどとぼくの頭の玄関先に押しかけてきた感じであった。


話は一気にシジミへ飛ぶのであるが、
今回、四号の表紙を、ちょっとだけ、谷中さんしてみた。
谷中さんした、というのは、墨を用いてみたということである。
卵白を混ぜた墨でつやを出していた、という話を思い出し、それを真似てみた。
さすがに版画するまではしなかったが、なりゆきで小さな木箱の底を使った。
これに、卵白を混ぜた墨を適当に塗り、べたんと紙の上に押す。これだけ。
それをつづけて四回行った。
まさかの四行程で出来上がってしまったのであるが、
古いアナログカメラで撮った写真が、現像すると面白い仕上がりになるのに似て、
卵白を混ぜた墨はなかなかよい働きをしてくれた。
ベタっとした感じにならず、濃淡が生まれ、不思議なムラをおびた風合いになったのである。
この出来が割合よかったので、そのまま表紙として採用することにした。
さて、どんな刷り上がりになることやら。


ひらめきを持てるということは愉快だ。
そこから偶然が引っ張り出されてくるのは、さらに愉快な出来事である。








コメント

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映像日記

2月14日 水
非番。復調。寒し。
週末ゴダール。インタビューや批評つまみ読み。ドゥボール。situs状況主義。インタビューは何より興味深い。
アンヌ・マリー=ミエヴィルとの共作『Comment ça va?』
ポルトガルで起きたカーネーション革命を下敷きに、「視線」についての考察が中心を流れている。
タイプライターの手を動きと文章を読む目の動きの類比。
視線を司るものは?「文章」。
画面に映し出されるタイポ文字のカーソルの動き。
文章はそれを読む(見る)視線の前で意志を持って動き、視線を監視している。
視線が文章を追うのではなく、文章が視線を追う。
映像を撮ることも映像を観ることも可能
だが、
そこにあるべき「視線」そのものを描くことは(可能かどうかというより)許されているのか?

「最後に、《俳優と観客の間にある映画》というタイポ文字のタイトルが、
 冒頭の《能動と受動の間にある映画》に打ち消された後消去され、
 カーソルだけが空しく動き続けて映画は終わる」(E/M Books 2)

文字を打つ作業と打たれた文字がそこに表象として写し出される現象とのあいだにあるものについて。
「文字を打つという作業」が、打つ人とは別の主体性で、何か別の作業を行っているという仮説に立って。
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司るものがあるとして。
それは打つ人の内部に?写し出される文字の側に?あるいは作業をする手に?
文字の(カーソルの)動きのほうに?
いずれもそうであってそうでない。
なぜならば、いずれかが司っているということはないから。それらは一貫して司られているといえないか。
物としての文字も文字の動きも作業する手も手を動かす意識や神経伝達の部門も、一貫して。
では何によって司られる?
その「何によって(あるいは、どうやって)」を探究する考察の上に哲学があり、
その探究の影響の上に心理学があり、その探究の質的転移(表象化)の上に芸術がある。
作業や現象が、それが可能になっていく(展開していく)過程で一貫して何かに司られているとするならば、
はじめに「受動ありき」ということがいえるのである。
能動は受動に後押しされていると(呼吸についておもいをめぐらしてみる。呼吸はまず「吐く」ありき。

infra-mince考/『マルセル・デュシャン、メモ』No.10をめぐって

Matsuoka Seigow氏が、あるとき、少人数を対象に行った講習会の場で、こんなことをお話しされた。

「いま、僕は諸君に向かってこうやってマイクでしゃべってます。僕の後ろには、ホワイトボードがあって、そこには
何か文字が書かれてる。で、ここで僕がこう、ホワイトボードのほうを振り返る。そうすると、諸君のほうを向いて
喋っている僕は、ホワイトボートのほうへ体を向ける僕へ移っていく、入れ替わっていくわけですね。そのときに、
いい?そのときに、喋っている僕と、何か書こうとして振り向くホワイトボードとの〝間〟に、何があるか、ということ
なんです。いい?そこを知りたいわけです。僕とホワイトボードの〝間〟がどうなっているか。」

数多く聞いた興味深い話のなかで、この話はいまでも私の記憶のなかに視覚情報と一緒に残っている。
「間 あいだ」というのは、Seigow氏がとても重要視している見方で、精神科医であり哲学者の木村敏さんも、
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あまりに簡単に使えてしまう言葉であると思っていたこともあって、意図的に用いないようにしていた。
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表現へ向かう私の動機が、そういう微妙きわまりない方面に隣接しているという自覚もあった。
だから、なおのこと、言語化をする手前で据え置きしたいという気持ちがあったのである。
分かったようなつもりで口にしたくなかったのだと思う。


私がここで、わざわざこの〝間〟という言葉を引き合いに出すのは、
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何かを言わなければならないと思ったためである。

infra-mince/アンフラマンス
(infra-:「下部、下方」の意をあらわす接頭辞 mince:「薄い」)

岩佐鉄男氏によって、「極薄」と訳されたM.デュシャンの物の見方である。
訳者の岩佐氏は次のように言及している。

 この意味を的確に言いあらわす日本語をうまく思いつかないので、この訳稿では《極薄》という語をあてているが、
 たんに「極めて薄い」というのではなく、ちょうど赤外線infrarou…

蜆がゆく! たけうま書房さん(横浜)/汽水空港さん(鳥取)/古本 冬營舎さん(島根)

ただいま蜆は、たびかさなる細胞分裂をくりかえし、
じょじょに〝二号〟になろうとしておるところであります。


だいぶ間があいてしまいましたが、
あらたに3つの店舗で蜆TuReを取り扱っていただけることになりました。

ひとつは、横浜市中区にありますたけうま書房さん。
創刊号に掲載した短編が小学校をぶたいにした話でしたので、
ぜひ横浜の(小生はハマっ子でした)お店にも、ということで置いていただいています。

それから、鳥取県松崎の東郷池のほとりにたたずむ汽水空港さん。
ぼくは、ここの店主のモリテツヤさんのファンになりました。
踏み込んでいえば、いろいろ影響されたい(とおもわせてくれる)ひと。
モリさんは、ちょっと抜けてる、つまり、
感性がズ抜けている、あるいはひょうげているといったらいいでしょうか。
そういう感じが個人的にいたします。

そしてそして、島根におわす古本 冬營舎さん。
ぼくがいちばん置いてもらえたらうれしいのになあ、とおもっていたお店であります。
なぜそんなにうれしいか?
冬營舎さんは、シジミの日本一の産地であるあの宍道湖をのぞむお店なんですね。
もちろんヤマトシジミです。
いわばシジミの古里、いやシジミのトポスといっていいすぎることはありません。
シジミの縁。に感無量。
こちらのページでさっそくご案内くださっていました。店主さまありがとうございます)

前にもぼくは書きましたが、シジミがとれるのは汽水域です。
汽水域。あれちょっと待てよとおもい、東郷池は汽水域なのではないかと調べてみると、、
やはり。東郷池は汽水湖でした。
あ!だから、「汽水空港」という名前なんだ!とそれで気がつく鈍感なぼくです。
モリさんにおたずねしたら、東郷池でもシジミがとれるとのことでした。
なんと!すごいすごい。
日本列島ひろしといえど、シジミのとれる地域はかぎられているんですし、
まして、古書店さんがある地域はもっとかぎられているわけですから、
んー、、心がおどります。

では、たけうま書房さんはどうだろう、、とためしに調べてみますと、
ここがなんと大岡川と横浜港とが合流する汽水域に近かったのであります。


シジミがシジミをさそい、蜆TuReは日本列島を縦断していく、、と。
蜆よ、ゆけ〜!