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シモーヌヴェイユ/交渉




初夏の草木が緑を放つ。水と光のはたらきがその緑を謳歌する。
植物は、天と地のあいだに立つ地上の天体。生える心臓。
植物の根は重力に従順に地へ差し向けられ、葉はその根が吸い上げる養分を恩寵とし、
もうひとつの恩寵をもたらす太陽の光へ差し向けられる。
地へ落ち込み天へと伸び、地を吸い上げ天を希求する。
その下降と上昇の垂直運動から、神話性はゆるやかに導き出されるだろう。
植物が放つ性は、人間の性の限界を超え、有機体としての宿命を暗黙裡に語りはじめるだろう。


ひとつの幻影がそこへ差しかかる。
いや、ひとつの幻影のほうへそこが差しかかる。
交渉の発生。そういう交渉のあり方。
光合成というはたらきに植物の神秘を見てとり、それをそのまま生命の信仰として持とうとした
シモーヌヴェイユの幻影は、
痛ましいほどにみずからを低いほうへと向かわせることで絶滅と永遠を望み、
光と影の相反を訴えながら、霧のような燐光を放って高みへ向かって落ちていく。
その光は他の追随を許さぬ鋭い輝きで光り、その影はとてつもない孤絶を内に秘めてかげる。


シモーヌヴェイユというひとつの霊性は、真実との交渉を希求した。
その希求が、彼女の信仰を支えていたのではないだろうか。


ぼくはいま、
シモーヌヴェイユが放つその草いきれを、思い切り吸い込んでみたい気持ちでいる。
こういう気持ちは、たいがい、周期性を持って訪れる。
いや、周期性などといった言葉でこの延滞をごまかしてはいけない。
ぼくは、もう4年近くもシモーヌヴェイユの言葉をほとんどまったく放置してしまっていたのだ。
その幻影とそれへの思慕が、いくぶん、日常に溶け込んでいたとしても。
無知の常習性ほど怖ろしいものはない。
忘れていて済むものとおもっていられることの可能性を疑いたくなる。
その怠慢を切り裂きたくなる。ナイフの切っ先は、ぼくの手首に当てられる。


いまこのぼくのなかをよぎるものについての考察ーーー。

   ポエジー
 ポエジーの仕事は、たゆまぬ受容と創作にあると考える。
 その受容と創作の方向性を担い、この仕事をその方向へと押し進める原動力となるものは何だろうか。
 それは、知られざるものとの交渉であろうと思う。
 知られざるものとは何か。
 それは、ポエジーが相手するところのことごとくに当てはまるものであろうと思う。


   共感
 本質的な部分での共感。底なしの共感。みずからが、その底になっていくような共感の持ち方。
 本質的であろうとするものは、おのずと偏りを持つ。
 偏りを持たされる(授与される)といっていい。
 それは、何のためかといえば、中心から外へ逸れるためであろうと思う。
 外へというのが分かりにくければ、より低いほうへ降りていくと言い替えてもいい。
 偏りは狭さを指すのではない。
 より低いほうへ降りていくための梯子のようなものだと考えればいいだろう。
 梯子はつねに、中心から少しでも遠いところから下ろされる必要がある。
 中心にあるものは、力の限りその梯子を外しにかかろうとするから。



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続 工場日記

その一 「痛み」

僧帽筋、脊柱起立筋、左三角筋、左手尺骨三角骨靭帯、胸鎖乳突筋…
これまでに労働をつうじて特に試練をしいられてきた主な部位たち。
なかでも胸鎖乳突筋の痛みには完全に参った。
ある夏の晩、寝ちがえる。首に経験したことのない激痛が走る。
数日前から頸部を中心に体の痛みをおぼえていたのであったが、
そこに、Liquorの過剰投与とその後のまずい体勢での寝入りが引き金となり、
トドメを刺されたかたちである。
首を回せない。寸分動かそうものなら、稲妻が走る。
そうなれば蚊の鳴くような声で泣くしかない。咀嚼もままならない。
患部を揉み揉み、なんとか読書ができるくらいまで回復したその日の晩、ふたたび激痛。
いよいよ万事休すと近くに整体院がないかを調べることに。
調べていくあいだに、寝違えのことがわかってくる。
どうも、寝違えというのは、
腋内側に走っている「腋窩(えきか)神経」が圧迫されて起こるようである。
寝違えて頸部に痛みを感じた多くの人は、首を揉んだり横に曲げて伸ばしたりするが、
これは一番行ってはいけないことなのだそうだ。
理由は、頸部の筋肉はいままさに炎症を起こし圧迫されている状態なのであって、
そこを揉めば圧迫に拍車をかけ、さらなる炎症を引き起こし痛みを悪化させるため、と。
やってはいけないことをやれば、治るものも治らない。
何かいい手はないものだろうかとおもいながらさらに調べていくと、対処法なるものを見つける。
腋窩神経を圧迫から解放してあげる有効な体操。

体操1
1. 背筋をのばし脱力。
2. 痛む側の腕を後方へ引き、少しずつ上げる。
(手首はだらりと垂らす)
2. 上がりきったところで、20秒キープ。腕をゆっくり戻す。(2セット)

体操2
1. 痛む側の手を腰に当てる。
2. 肘を後方へ引く。
3. 引ききったところで、20秒キープ。腕をゆっくり戻す。(2セット)

体操3
1. 痛む側の腕を手のひらを上にして肩の位置まで上げる。
2. 120度の角度で肘を曲げ、そのまま水平に後方へ引く。
(体はひねらず腕だけを後ろへ)
3. 引ききったところで、20秒ほどキープ。腕をゆっくり戻す。(2セット)

実際にやってみると、どうしようもなかった首の痛みが引いた。
ただ、いつあの痛みが再発するとも知れないので、しばらくは用心の日々を送ることに。

映像日記

2月14日 水
非番。復調。寒し。
週末ゴダール。インタビューや批評つまみ読み。ドゥボール。situs状況主義。インタビューは何より興味深い。
アンヌ・マリー=ミエヴィルとの共作『Comment ça va?』
ポルトガルで起きたカーネーション革命を下敷きに、「視線」についての考察が中心を流れている。
タイプライターの手を動きと文章を読む目の動きの類比。
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文章はそれを読む(見る)視線の前で意志を持って動き、視線を監視している。
視線が文章を追うのではなく、文章が視線を追う。
映像を撮ることも映像を観ることも可能
だが、
そこにあるべき「視線」そのものを描くことは(可能かどうかというより)許されているのか?

「最後に、《俳優と観客の間にある映画》というタイポ文字のタイトルが、
 冒頭の《能動と受動の間にある映画》に打ち消された後消去され、
 カーソルだけが空しく動き続けて映画は終わる」(E/M Books 2)

文字を打つ作業と打たれた文字がそこに表象として写し出される現象とのあいだにあるものについて。
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どのようにそれが可能なのかということについての考察へ。
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文字の(カーソルの)動きのほうに?
いずれもそうであってそうでない。
なぜならば、いずれかが司っているということはないから。それらは一貫して司られているといえないか。
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