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真夏のシジミより

朝一の労働からの帰路、居住区の外壁の角っこに蝉の抜け殻を見つけた。
羽化という仕事を完遂するのに、場所など問うてる余裕はなかったのだろう。
しょせん、人間のつくったものなぞ、虫の一生にとっちゃ与り知らぬ夾雑物にすぎないのである。
細い足で踏ん張る薄いカルシウムの殻は、かちりと壁面におのれを引っ掛けて静止していた。
わたしはそいつを壊さないように慎重に壁から解いてやり、
やわらかく握った手のなかにしまい、拙宅まで連れて帰った。

蝉の抜け殻は、二つの抽象的意味を隠し持っている。
わたしが勝手に隠し持たせたのだが。
ひとつは、広島の原爆。
もうひとつは、善意である。

かつてわたしは、青々と葉を茂らせたアオギリの木の幹の中腹に、
まるで空へ向かって梯子をかけるようにして蝉の抜け殻が列をなして並んでいるのを見たことがあった。
8月だった。
このアオギリの木は、被爆してもなお繁茂しつづける木として原爆記念公園の片隅にしずかに生えている。
以前、Matsuoka Seigow氏の私塾でこういう句をつくったことがあった。

   原爆忌、脱皮している大過去が 

8月6日は過去ではない。
原爆ドームは遺構などではない。
それをなつかしむようなまなざしで見上げてはならない。
広島の原爆は、いまも広島に落ちつづけている。
8月6日は過去ではない。
わたしたちが知っているような過去ではない。
わたしたちの知らない「過去よりももっと奥のほうにある過去」が、そのことを知っている。
「過去よりももっと奥のほうにある過去」から、広島の現在が、わたしたちの現在めがけて脱皮をしつづけている。
原爆ドームのあの天蓋も脱皮しつづけている。
過去からの警告としての脱皮。サイン。永久に反復再生されるそれ。
広島には、いまもなお、あの原爆が落ちつづけている。
そして、その落下はわたしたちの忘却を前提にしているともいえるのである。

アオギリの木の前に立ち、偶然下から仰ぎ見て目撃したあの光景に、わたしは大いに驚き興奮した。
わたしは、そこに、広島の脱皮を見た。
そして、じぶんでつくった句の意味をありありとそこに見てとったのである。


後者は、わたしが昨年秋に群像に提出した169枚の中篇小説と関係する。
小説の冒頭では、広島で目撃した抜け殻が〝ある特殊な善意が迎える結末〟の比喩として扱われるかたちで、登場する。

   指は裸でいるのに、そこから延びつながっている根もとの本体のほうはそのことをちっとも恥ずかしがらないのは、
  指先で指が四六時中くゆらせる性ののうねうねとしたあの運動をまるで見えないものにしているためとしかいいようが
  ない。たとえそうであったとしても、いまその指は体のどの器官よりも先に梧桐(あおぎり)の木の幹に到達しようと
  していた。飴色に朽ちたカルシウムの殻は、空をめざす梯子のように上へ上へとこつこつとならび、そこからおそらく
  音も立てずに飛び立っていった祖霊虫たちが、無言で樹木に掛けて残していった半透明の祭服。あのかんぽりとあいた
  割れ目のうちがわのうつほには、どこか供儀めいた聲が木霊しているのだった。
   その指先は、梧桐の木に群れをなして不規則な隊列をつくる蝉の抜け殻のひとつをまっすぐに指していた。

この主人公は十四の少女で、指先からありったけの善意を空へ向かって放ち、命尽きる。
この話を書こうとおもったのは、わたしが以前京都の仏教叢書専門の出版社に勤めていたころ、
「人の善意とはいったい何だろうか」とふとおもったことがきっかけであった。
わたしが案出したひとつの見方は、善意とは「受け身」のことではないかというものだった。
報酬を求める善意(善意的ふるまい)を超えた、「受け身」であることそのものが純粋な報酬になるような「超善意」と
呼べるものを想定して何か書いてみたいとおもったのである。だから、この話の重要なテーマのひとつは「M(マゾ)」
なのだ。その「M」は個人の欲求や病理から生じるものではなく、宿命的かつ純粋な希求からくる性の運動であり、
しかもその運動の「主体」はどこを探しても見つけることができない。云々


さて、Mと出てきたところで本題へ。
最新の四號の「Mの耳」には四名の読者の方が感想をお寄せくださいました(最年少はなんと17歳の高校生です)。
ありがとうございます。



今回のシジミのお話は、湖が舞台。主人公は、音にまつわる仕事人です。
表紙は、湖にちなんで青。(どうぞ、涼んでください。)

そして、おしまいにひとつお知らせです。
四號の扉の言葉では、ちょっとぼやかして書いてありますが(刷るころは、まだどうなるかわからなかったのです)、
蜆TuReは四號でおわらずに、第五號へとつづきます。
ですから、読者のみなさまも、どうぞおつづきください。お待ちしております。
あたらしい読者のみなさま、お待ちしております。

定期購読のお申込みについての詳細は、こちらまで。
(一冊からのご注文も承ります。)

五號からは、ページ数が少し増え、短篇二本立てでまいります。
冊子の大きさやトーンは、いままで通りです。
ページ数が増える関係でお、値段が300円税込から400円税込になります。

詳しくは、後日、ホームページにてご案内いたします。
よろしくお願い申し上げます。




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2月14日 水
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蜆がゆく! たけうま書房さん(横浜)/汽水空港さん(鳥取)/古本 冬營舎さん(島根)

ただいま蜆は、たびかさなる細胞分裂をくりかえし、
じょじょに〝二号〟になろうとしておるところであります。


だいぶ間があいてしまいましたが、
あらたに3つの店舗で蜆TuReを取り扱っていただけることになりました。

ひとつは、横浜市中区にありますたけうま書房さん。
創刊号に掲載した短編が小学校をぶたいにした話でしたので、
ぜひ横浜の(小生はハマっ子でした)お店にも、ということで置いていただいています。

それから、鳥取県松崎の東郷池のほとりにたたずむ汽水空港さん。
ぼくは、ここの店主のモリテツヤさんのファンになりました。
踏み込んでいえば、いろいろ影響されたい(とおもわせてくれる)ひと。
モリさんは、ちょっと抜けてる、つまり、
感性がズ抜けている、あるいはひょうげているといったらいいでしょうか。
そういう感じが個人的にいたします。

そしてそして、島根におわす古本 冬營舎さん。
ぼくがいちばん置いてもらえたらうれしいのになあ、とおもっていたお店であります。
なぜそんなにうれしいか?
冬營舎さんは、シジミの日本一の産地であるあの宍道湖をのぞむお店なんですね。
もちろんヤマトシジミです。
いわばシジミの古里、いやシジミのトポスといっていいすぎることはありません。
シジミの縁。に感無量。
こちらのページでさっそくご案内くださっていました。店主さまありがとうございます)

前にもぼくは書きましたが、シジミがとれるのは汽水域です。
汽水域。あれちょっと待てよとおもい、東郷池は汽水域なのではないかと調べてみると、、
やはり。東郷池は汽水湖でした。
あ!だから、「汽水空港」という名前なんだ!とそれで気がつく鈍感なぼくです。
モリさんにおたずねしたら、東郷池でもシジミがとれるとのことでした。
なんと!すごいすごい。
日本列島ひろしといえど、シジミのとれる地域はかぎられているんですし、
まして、古書店さんがある地域はもっとかぎられているわけですから、
んー、、心がおどります。

では、たけうま書房さんはどうだろう、、とためしに調べてみますと、
ここがなんと大岡川と横浜港とが合流する汽水域に近かったのであります。


シジミがシジミをさそい、蜆TuReは日本列島を縦断していく、、と。
蜆よ、ゆけ〜!