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こわいという話





書くのをやめようかと思うことが、たびたびある。

書きたいことがあるうちは書きつづけたらいいというのは、だいたい平均していつも思っていることだが、
そうもいっていられなくなるときがある。
それは、自分の言語力と構成力に致命的な(と、少なくとも自分ではそう感じる)不足が立ちはだかるとき。
「不足している。ああオレはもうダメだ」と思うのではない。
その不足を補うだけの力を身につけることがどうも現実的に難しそうだと思えてしまうとき、挫ける。
早い話、自分の能力に限界を感じるわけだ。
限界といってしまえば簡単で、限界を乗り越えてこそ新たな道がひらけると言うのも簡単である。
だが、書いている本人は日々小さな限界を感じながらも、それを積んでは崩し、積んでは崩しして、
どうにか小さな成長を遂げつつ、次につなげていくことができているのだとおもう。
一方で、崩し切れずに積もっていく限界というものがあって、それが意識下で積み重なっていくと、
どこかのタイミングで袋小路に追い込まれ、身動きがとれなくなる。
さらにそこで、他者の目が入るなどして、何がいけないのかが明らかになればなるほど、
問題(限界)の具体的な根深さにはじめて気づき、万事休する。
とても立ち直れそうにない状態に置かれるのだ。

どんな独創性に富んだ創作料理でも、食べてみてマズかったらだれにも味わってもらえない。
それと同じように、
たとえどんな斬新で風変わりな着想で書かれた作品であっても、読み手にあまりに負担を強いるのでは、
「いいわるい」「わかるわからない」の前に、読んですらもらえない。
読んでもらえるという最低限の担保を作品に持たせるためには、それなりの筋道や順序や手がかりや前提を
話のなかに用意しておくことが必要になる。それがないと、読み手はどうしていいかがわからなくなってしまう。
特に小説と呼ばれているものにはそれが必要で、書き手はここを避けては通れないらしいというのが、
私にも少しずつ(身をもって)わかってきた気がする。
ここをしっかりしていくためには、構造を組み立てる力が求められるのだろうが、
正直言って、私はその力が弱い。これまで避けてきた部分でもある。

「よし書けた!」と自分なりにいえるところまで持ってくるまでにも、
原稿をいくどとなく見返し、つどダメ出しをし、もれそうなため息をぐっとがまんして何度も何度も書き直す。
自分なりの矜持をもちながら向き合い、手間と時間と精神をかけているにもかかわらず、
他者の目が入った途端、いかに全体として書けていないかが判明する。
オレはいったい何を見返していたのだろうかとがっくりする。自分の判断にも矜持にもいささか自信を失う。
この場合、何が問題なのか。
ひとついえることは、細部に落ちているということがいえる。
描写の細部、隣接する文と文とに限られたつながり(という細部)、小さな個人的なこだわり。
こういうところにやたら注力しているわりに、全体の流れ(とりわけ中盤に欠陥がひそんでいることが多い)、
段落と段落とのつながり、への注意がおろそかになっている。
本人の自覚はなく(うすうす気づいてはいるものの)、正直な話、いわれないとはっきりとはわからない。
これに加えて、日本語のあいまいさやまちがった使い方などといった国語力のごく基礎的な欠陥も見えてくる。
ただでさえ、けっして読みやすい話とはいいにくい私の作品は、せめて最低限の交通整理をしておかないと、
読者に申し訳が立たないことになる。
そこもクリアできていないようでは、これは「筆力の限界です!」といってアタマを下げて引退するしかない
という気持ちになるのは、、推して知るべし。

このように、読者向けに書く『蜆TuRe』では、必ず他者(家の人)の目を入れることにしている。
そのつど、学習し、傷を負う。
三、四、は幸いほとんど傷を負わずにすんだが、
このほど編集作業を終えたばかりの第五號では、その傷は深かった。まだ癒えていない。

次を書くのがこわい。






コメント

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続 工場日記

その一 「痛み」

僧帽筋、脊柱起立筋、左三角筋、左手尺骨三角骨靭帯、胸鎖乳突筋…
これまでに労働をつうじて特に試練をしいられてきた主な部位たち。
なかでも胸鎖乳突筋の痛みには完全に参った。
ある夏の晩、寝ちがえる。首に経験したことのない激痛が走る。
数日前から頸部を中心に体の痛みをおぼえていたのであったが、
そこに、Liquorの過剰投与とその後のまずい体勢での寝入りが引き金となり、
トドメを刺されたかたちである。
首を回せない。寸分動かそうものなら、稲妻が走る。
そうなれば蚊の鳴くような声で泣くしかない。咀嚼もままならない。
患部を揉み揉み、なんとか読書ができるくらいまで回復したその日の晩、ふたたび激痛。
いよいよ万事休すと近くに整体院がないかを調べることに。
調べていくあいだに、寝違えのことがわかってくる。
どうも、寝違えというのは、
腋内側に走っている「腋窩(えきか)神経」が圧迫されて起こるようである。
寝違えて頸部に痛みを感じた多くの人は、首を揉んだり横に曲げて伸ばしたりするが、
これは一番行ってはいけないことなのだそうだ。
理由は、頸部の筋肉はいままさに炎症を起こし圧迫されている状態なのであって、
そこを揉めば圧迫に拍車をかけ、さらなる炎症を引き起こし痛みを悪化させるため、と。
やってはいけないことをやれば、治るものも治らない。
何かいい手はないものだろうかとおもいながらさらに調べていくと、対処法なるものを見つける。
腋窩神経を圧迫から解放してあげる有効な体操。

体操1
1. 背筋をのばし脱力。
2. 痛む側の腕を後方へ引き、少しずつ上げる。
(手首はだらりと垂らす)
2. 上がりきったところで、20秒キープ。腕をゆっくり戻す。(2セット)

体操2
1. 痛む側の手を腰に当てる。
2. 肘を後方へ引く。
3. 引ききったところで、20秒キープ。腕をゆっくり戻す。(2セット)

体操3
1. 痛む側の腕を手のひらを上にして肩の位置まで上げる。
2. 120度の角度で肘を曲げ、そのまま水平に後方へ引く。
(体はひねらず腕だけを後ろへ)
3. 引ききったところで、20秒ほどキープ。腕をゆっくり戻す。(2セット)

実際にやってみると、どうしようもなかった首の痛みが引いた。
ただ、いつあの痛みが再発するとも知れないので、しばらくは用心の日々を送ることに。

映像日記

2月14日 水
非番。復調。寒し。
週末ゴダール。インタビューや批評つまみ読み。ドゥボール。situs状況主義。インタビューは何より興味深い。
アンヌ・マリー=ミエヴィルとの共作『Comment ça va?』
ポルトガルで起きたカーネーション革命を下敷きに、「視線」についての考察が中心を流れている。
タイプライターの手を動きと文章を読む目の動きの類比。
視線を司るものは?「文章」。
画面に映し出されるタイポ文字のカーソルの動き。
文章はそれを読む(見る)視線の前で意志を持って動き、視線を監視している。
視線が文章を追うのではなく、文章が視線を追う。
映像を撮ることも映像を観ることも可能
だが、
そこにあるべき「視線」そのものを描くことは(可能かどうかというより)許されているのか?

「最後に、《俳優と観客の間にある映画》というタイポ文字のタイトルが、
 冒頭の《能動と受動の間にある映画》に打ち消された後消去され、
 カーソルだけが空しく動き続けて映画は終わる」(E/M Books 2)

文字を打つ作業と打たれた文字がそこに表象として写し出される現象とのあいだにあるものについて。
「文字を打つという作業」が、打つ人とは別の主体性で、何か別の作業を行っているという仮説に立って。
思考というものがどこから来て、その思考がどのように表象化するのか、
どのようにそれが可能なのかということについての考察へ。
司るものがあるとして。
それは打つ人の内部に?写し出される文字の側に?あるいは作業をする手に?
文字の(カーソルの)動きのほうに?
いずれもそうであってそうでない。
なぜならば、いずれかが司っているということはないから。それらは一貫して司られているといえないか。
物としての文字も文字の動きも作業する手も手を動かす意識や神経伝達の部門も、一貫して。
では何によって司られる?
その「何によって(あるいは、どうやって)」を探究する考察の上に哲学があり、
その探究の影響の上に心理学があり、その探究の質的転移(表象化)の上に芸術がある。
作業や現象が、それが可能になっていく(展開していく)過程で一貫して何かに司られているとするならば、
はじめに「受動ありき」ということがいえるのである。
能動は受動に後押しされていると(呼吸についておもいをめぐらしてみる。呼吸はまず「吐く」ありき。

みな、地球。

年始に買った築地書館の『土と内臓』(ほんとうにほんとうに面白い本)のおかげで、
幸運なことに、私のなかに微生物への愛が芽生えた。
もともと微生物に愛着はあったけれど、いよいよ全身全霊で愛していこうとおもう次第。

今回の蜆TuRe(第七號)は、海と転生というテーマでひとつ書いてみた。
ちなみに今回はタイトルが長い。
『急げブランキゆるやかに この途方もない軽さのうえへおもいをはせよ』
なんとなく、ヘンリミラーの『ビッグ・サーとヒエロニムス・ボッシュのオレンジ』みたいなアップテンポの語感がほしかった。
それはさておき、これを書いている最中、プランクトンに友情を抱き、
その友情に乗り入れるかたちで、深い微生物愛が芽生えたのだ。

なによりもまっさきに地球のことを考えたい。どうもこのごろは、そういう心情から離れられなくなりつつある。
都民ファースト都民ファーストと東の方からは聞こえてくるが、いやいや地球ファーストだろう。
この地球上のどこを切っても微生物が躍動している。土の中、海の中、空の中、さらには動物の体内までも。
微生物はいわば地球の原住民である。
はるか昔、地球の中核で煮えたぎるマグマにもっとも近い海底の墳気孔で古細菌が生まれた。
想像を絶する高温の湯に浸かりながら、酸素をいやがる嫌気性の古細菌は、
酸素をこのむ好気性の細菌との結婚のときをじっと待ち、来たるべき原生動物の誕生にそなえていた。
それから何十億年もたって、真核細胞は植物を生み、動物を生み、生命の一部は海から陸へと上がっていった。
地上では、堅い岩が気の遠くなる時間をかけて砕け、そこに動物微生物の死骸が積もり、やがて豊かな土になった。
そうやって積み重ねられた長い長い建設作業の末に、生命の原初的な土台が築かれたのである。
その歴史的事情をわきまえずに、のうのうと地球で暮らしていくのは、私はいやなのだ。
それは、なんておこがましい、なんてまずしいことか!
「私はおなかが空いた!私は飯を食いたい!」
そういって食欲を振りかざすこの私という存在は、まちがいなくこの地球で暮らしている。
そしてこの私の体のなかでは、生命の大先輩である微生物たちが暮らしているのである。
たとえば牛の体のなかはどうだろう。
牛は草を食べ、それを胃と口のあいだで何度も反芻する。
この反芻に、牛が生き延びていく上でとても重要な秘密が隠さ…