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「小説らしいもの」





この記述を読んでいる人は、ほとんどいないだろうから、
まだ出ていない五号のはなしを少しばかり。


少しは「小説らしいもの」を書いてみようかとおもってやってみると、
じぶんが、いかに出鱈目でとんちんかんな文を書く人かということが、いやなほどわかる。
独創で押し通そうとしているようなときは、そういうことにはまず気づかない。

「小説らしいもの」とは、どういうものなのか。
時代や場面設定があり、登場人物がいて、人物像が描かれ、何かしらの出来事や事件が起こり、
その一連のつながりでもってプロットが組み立てられている。
はなしのはじめから中盤にかけて伏線が用意されてあり、読み進めていくとそれが次第にあきらかになっていく。
読者が、人物に感情移入をし、情景を思い浮かべ、追体験をすることができる。
次が気になる。衝撃の結末や感動的なラストシーンが待っている。読んだ後には何かしらの余韻が残る。
登場人物しかり、台詞しかり、作品のなかに描かれるすべての要素が書き手の動機を担うのと同じように、
それらの要素が「読む動機」を読み手に与えるようにもなっているもの。
雑にいってしまえば、こういうのが「小説らしいもの」ということになろうとおもう。

わたしは、正直なはなし、小説というものをあまり読まない。
かりに読みたいとおもったとしても、フランスのシュルレアリストのものとか、
わたしが好きなブランショの『謎の男トマ』や『期待/忘却』といった小説らしくないものばかりである。
あとは、随筆、評論、詩集。文学以外では、農学、医学、物理、生物、山岳、それから心理や言語関連。
どちらかというと、原理のほうに触れるのが楽しいと感じるタイプの人間である。
それでも、たまに、遠藤周作の『沈黙』だったり大江健三郎の『芽むしり仔撃ち』なんかを読んでみると、
文章はつまらないけれど、ああ小説を読んだなあという満足感は得られる。
と、えらそうにはいうけど、ひとつの小説に打ち込んだ作家魂に対して敬意を払うことはけっして忘れない。

またはなしが逸れたが、
つまり、わたしは、小説があまり好きではないのだ。
好きではないが、小説を書きたくなる気持ちはわかる。むしろ、その気持ちを共有したいとさえおもう。

あなたはなぜ書くのか?ときかれたら、わたしはこうこたえる。
「わたしには書きたいことがあるから」と。
問題は、その「書きたいこと」がどこからやって来るのかということだが、これはじぶんでもよくわからない。
だいたい、なぜじぶんが言語表現を行おうとおもうようになったのかも、いまだにわかっていない。
おそらくどこかのタイミングで、わたしの生命が、哲学的思惟のほうにかたむいたためだとおもう。
なにか鬱然としたうすはかない気持ちが、成長ホルモンとともに放射されつづけていたのだろう。

ものを書くという行為は、
規定値に乗じてことをなすのではなく、規定値をこわしてつくりなおす側に立つことだ。
ものを書く人間として、この点においてわたしの動機はじつに明瞭である。
なぜかというと、それは単純に、わたしが規定値に乗じることがうまくできないからである。
もう少していねいにいうと、規定値に乗じようとしてもなぜか自然とそこから逸れてしまうから。
たとえていえば、方向音痴。(じっさいに、わたしには方向音痴の素質がある)
こういって、まるでわたしが「方向音痴なじぶんのために書いている」みたいに聞こえてしまうと困るのだが、そうではない。

本当の動機は、書き手の内部事情を超えたところにある。
書くという行為は、内部であり外部でもあるのだ。
書く行為がなぜ発生し、なぜいずれかの方向性を有するようになるのかは、内部のはなしだけでは説明がつかない。

おそらく、何かしらの「共通の体験」を求めて書いているはずなのである。
誰かとなにかを、しかも根底の部分で、「共有」したいがために何かを書いている。
こういうことだろうと、わたしはおもっている。じぶんもそれを感じている。

もし本当の動機がそこにあるのだとしたら、
であれば、もう少し他者と「共有しやすい」ものを書こうとおもいたくなるのは自然なことであって、
そういうわけで、はなしがはじめに戻るのだが、少しは「小説らしいもの」を書いてみようとおもってみたのである。

わたしの書く話には、これといったストーリーらしきものがない。これは当の本人も自覚している。
これがこうして、ああなって、それでなんとこんなになった、というような山場がほとんどないのだ。
そのわりに、途中で加速したり急変したり、何も起こらずいきなり終わったりするので、
たいていの読み手は、ぶん回された挙句にほっぽり投げられたようなどうしていいかわからない感じにおちいる。
そういう感じにおちいらずに、独自の読みを獲得するタフな読者も中にはいる。
もしくは、なんかわからないけどわかるような気がするというやさしい読者もいる。

いずれにしても。
読者を遭難させないための「道順づくり」と「誘導」ができているかどうか。
わたしとしては、ここに最大の注意を払いたい。
それがどうしてもできないのであれば、わたしは、少なくとも小説はあきらめたほうがいいのだろう。


といいつつ、性懲りもなく、また次の「小説らしいもの」を悲壮感にかられながら書いている。



追伸
そういうわけでありますから、
五号は、少しは小説らしいものを書いたつもりでおります。




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その一 「痛み」

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首を回せない。寸分動かそうものなら、稲妻が走る。
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