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がんばれ取材。蜆TuRe五号がらみ




(前置き 少しだけ五号がらみのはなしです。)


取材。
小説や記事を書く際に必要な材料を、実在する人物や実際に起こった出来事から取ること。

大学のころ、とある小さな作文塾にかよっていた。新聞記者を少しだけ目指していたころのこと。
実地で取材をして書くというお題が出て、東京高等裁判所まで傍聴をしに出かけたことがある。
一日で三件の裁判を傍聴した。民事一件、刑事二件。
刑事二件のうち一件は殺人罪を問う裁判で、いわゆるヤクザ同士の揉め事で起きた事件だった。
裁判官につづいて、被告がしずしずと法廷に姿をあらわすと、独特の緊張感がただよった。
被告は、新宿歌舞伎町のスナックに押し入り拳銃を三発発砲し相手方を殺害したとのことであった。
服役後は僧侶の道を歩むというようなことを述べていた。
小柄ながら強健で恰幅がよく、顔つきからも普通の人ではない感じが否応なしに伝わってきた。
傍聴を終え建物を出るとき、明らかにその筋の人とわかる一行と廊下ですれちがった。
出口でも見かけたので、おそらくその日はヤクザの偉い人の重要裁判があったのだろう。
半ば興奮気味に裁判所を後にした記憶がある。

けっして後味のよいものではないが、この裁判傍聴の取材はとても面白かった。
よくよく観察し、そこから細かな特徴を見つけ出してくるのが、案外、得意なのかもしれない。
書いていて手応えがあった。作文の評判も良かった。
見てきたものを書くときというのは、力がこもり、費やすエネルギーに厚みが出るものだ。
ひとえに取材といっても、誰の(何の)どこをどう見て、さらにどう伝えるかで内容は大きく変わるだろう。
これは文章だけに限らず、映像の撮影についても同じことがいえるとおもう。
問題は、何をどう見るか、見たか。
取材した人物が、取材から何を得たのか。さらにそれをどういう方法で伝えるか。
文学(あるいは映画)とジャーナリズムはちがう。同じにならないほうがいい。
だが、この取材と伝達という点では共通している。

どうしてまたこんな話をしたかというと。
今号の蜆TuReでは、これまでと少し方向性の異なることをやってみようとおもい、
短篇二本のうち一本を少し取材寄りのものにしてみた。
実在した場所と出来事を基に、架空の人物と架空の出来事とで描いてみたかったのである。
この題材は、たまたまつけたテレビの報道番組で知った。
書いたのはごくごく短い話であって、うまくいっているかどうかもわからないのであまり大きなことはいえないが、
基となる事実は日本の史実をひもとく上で重要な材料であることにちがいはない。

ついでにいうと、
もう一本の短篇のほうは、これも実在する人物の人物像に触発されて書いたものである。
いわばオマージュである。こっちは完全なフィクション。
すでにどこかで発表したので、ここでもいってしまうと、その人物というのはフランスの哲学者シモーヌヴェイユ。
いま、ぼくがもっとも身近に感じている人である。
オマージュも材を取るという意味では一種の取材といえるだろうとおもう。
いや、本気のオマージュをするには、それこそ徹底した取材が必要なのではないか。
かくいうぼくには取材コンプレックスというのがあり(情報収集が大の苦手で、できればしたくない)、
根詰めて取材するだけのバイタリティーにも欠けているので、いろいろ不便なのだけれども、
もう少し力を入れて取材をがんばってみたいとおもう今日このごろである。







コメント

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映像日記

2月14日 水
非番。復調。寒し。
週末ゴダール。インタビューや批評つまみ読み。ドゥボール。situs状況主義。インタビューは何より興味深い。
アンヌ・マリー=ミエヴィルとの共作『Comment ça va?』
ポルトガルで起きたカーネーション革命を下敷きに、「視線」についての考察が中心を流れている。
タイプライターの手を動きと文章を読む目の動きの類比。
視線を司るものは?「文章」。
画面に映し出されるタイポ文字のカーソルの動き。
文章はそれを読む(見る)視線の前で意志を持って動き、視線を監視している。
視線が文章を追うのではなく、文章が視線を追う。
映像を撮ることも映像を観ることも可能
だが、
そこにあるべき「視線」そのものを描くことは(可能かどうかというより)許されているのか?

「最後に、《俳優と観客の間にある映画》というタイポ文字のタイトルが、
 冒頭の《能動と受動の間にある映画》に打ち消された後消去され、
 カーソルだけが空しく動き続けて映画は終わる」(E/M Books 2)

文字を打つ作業と打たれた文字がそこに表象として写し出される現象とのあいだにあるものについて。
「文字を打つという作業」が、打つ人とは別の主体性で、何か別の作業を行っているという仮説に立って。
思考というものがどこから来て、その思考がどのように表象化するのか、
どのようにそれが可能なのかということについての考察へ。
司るものがあるとして。
それは打つ人の内部に?写し出される文字の側に?あるいは作業をする手に?
文字の(カーソルの)動きのほうに?
いずれもそうであってそうでない。
なぜならば、いずれかが司っているということはないから。それらは一貫して司られているといえないか。
物としての文字も文字の動きも作業する手も手を動かす意識や神経伝達の部門も、一貫して。
では何によって司られる?
その「何によって(あるいは、どうやって)」を探究する考察の上に哲学があり、
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作業や現象が、それが可能になっていく(展開していく)過程で一貫して何かに司られているとするならば、
はじめに「受動ありき」ということがいえるのである。
能動は受動に後押しされていると(呼吸についておもいをめぐらしてみる。呼吸はまず「吐く」ありき。

infra-mince考/『マルセル・デュシャン、メモ』No.10をめぐって

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「いま、僕は諸君に向かってこうやってマイクでしゃべってます。僕の後ろには、ホワイトボードがあって、そこには
何か文字が書かれてる。で、ここで僕がこう、ホワイトボードのほうを振り返る。そうすると、諸君のほうを向いて
喋っている僕は、ホワイトボートのほうへ体を向ける僕へ移っていく、入れ替わっていくわけですね。そのときに、
いい?そのときに、喋っている僕と、何か書こうとして振り向くホワイトボードとの〝間〟に、何があるか、ということ
なんです。いい?そこを知りたいわけです。僕とホワイトボードの〝間〟がどうなっているか。」

数多く聞いた興味深い話のなかで、この話はいまでも私の記憶のなかに視覚情報と一緒に残っている。
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私がここで、わざわざこの〝間〟という言葉を引き合いに出すのは、
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infra-mince/アンフラマンス
(infra-:「下部、下方」の意をあらわす接頭辞 mince:「薄い」)

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 この意味を的確に言いあらわす日本語をうまく思いつかないので、この訳稿では《極薄》という語をあてているが、
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蜆がゆく! たけうま書房さん(横浜)/汽水空港さん(鳥取)/古本 冬營舎さん(島根)

ただいま蜆は、たびかさなる細胞分裂をくりかえし、
じょじょに〝二号〟になろうとしておるところであります。


だいぶ間があいてしまいましたが、
あらたに3つの店舗で蜆TuReを取り扱っていただけることになりました。

ひとつは、横浜市中区にありますたけうま書房さん。
創刊号に掲載した短編が小学校をぶたいにした話でしたので、
ぜひ横浜の(小生はハマっ子でした)お店にも、ということで置いていただいています。

それから、鳥取県松崎の東郷池のほとりにたたずむ汽水空港さん。
ぼくは、ここの店主のモリテツヤさんのファンになりました。
踏み込んでいえば、いろいろ影響されたい(とおもわせてくれる)ひと。
モリさんは、ちょっと抜けてる、つまり、
感性がズ抜けている、あるいはひょうげているといったらいいでしょうか。
そういう感じが個人的にいたします。

そしてそして、島根におわす古本 冬營舎さん。
ぼくがいちばん置いてもらえたらうれしいのになあ、とおもっていたお店であります。
なぜそんなにうれしいか?
冬營舎さんは、シジミの日本一の産地であるあの宍道湖をのぞむお店なんですね。
もちろんヤマトシジミです。
いわばシジミの古里、いやシジミのトポスといっていいすぎることはありません。
シジミの縁。に感無量。
こちらのページでさっそくご案内くださっていました。店主さまありがとうございます)

前にもぼくは書きましたが、シジミがとれるのは汽水域です。
汽水域。あれちょっと待てよとおもい、東郷池は汽水域なのではないかと調べてみると、、
やはり。東郷池は汽水湖でした。
あ!だから、「汽水空港」という名前なんだ!とそれで気がつく鈍感なぼくです。
モリさんにおたずねしたら、東郷池でもシジミがとれるとのことでした。
なんと!すごいすごい。
日本列島ひろしといえど、シジミのとれる地域はかぎられているんですし、
まして、古書店さんがある地域はもっとかぎられているわけですから、
んー、、心がおどります。

では、たけうま書房さんはどうだろう、、とためしに調べてみますと、
ここがなんと大岡川と横浜港とが合流する汽水域に近かったのであります。


シジミがシジミをさそい、蜆TuReは日本列島を縦断していく、、と。
蜆よ、ゆけ〜!