スキップしてメイン コンテンツに移動

「個人」という考え方 




世の中がいかなる成りゆきになろうとも、
ぼく個人は、
荷風散人にならい、
みずからその中に与していこうとはおもわない。

これが、ぼくの基本的態度である。

それでも、
何も知ろうとしないというのは恥であり、
何も知らなかったと、あとあと嘆くのは愚であるから、
知る努力をすすんで放棄することはしない。

世の中の成りゆきが、
ぼくを含めた数多くの個人の成りゆきに隣接している以上は、
このぼくにも、
個人として、
その成りゆきを知る必要がある。


おもうところあって、
あわてて一冊の本を読んだ。

『「日本国憲法」を読み直す』岩波現代文庫

憲法学者の樋口陽一と、劇作家で小説家の井上ひさしとの
日本国憲法をめぐる対談集である。
主に1993年から95年にかけての対談が収載されたものだが、
いま取り沙汰されている諸問題が、すでに20年前において問題視されており、
議論されていることにクラっとした。
ぼくじしんが問題そのものを知らなかったということに加えて、
この20年のあいだに、
それらの諸問題が、
世の中の成りゆきをますますわからない方向へ引き回していこうとしていることに
気づかされるためである。

この本を手に取った理由をかんたんに記す。
ぼくは、遅ればせながら、
先日はじめて、自民党の日本国憲法改定草案の中身に触れた。
それで、ぼくは、
国民によって選出された日本の代表者たちが、
およそ70年にわたって今日まで生き延びてきたこの憲法の
何をどう書き換えようとしているのかを知りたいとおもった。
いや、知らなければならないとおもった。
思想うんぬんを言う以前の、まず、言葉のレベルにおいて。
そのためには、
現行の日本国憲法に何が書かれてあるのかを知る必要がある。
何か適当な本はないかと探した。
ぼくは、
『自家製文章読本』を読んで以来、
井上ひさしという人に一目置くようになり、
日本語に対する真摯な態度とその本質的アプローチの取り方に、ただならぬエネルギーを感じていた。
彼の感性は信用に足るとおもった。
また、
彼が、加藤周一発足による「九条の会」に大江健三郎らとともに名をつらねていることを知っていたし、
「憲法が改正されるのを見て死にたくないですね」と生前語っていたことも知っていた。
それで、手はじめに上の一冊を求めたのである。
対談相手の樋口陽一については、正直ほとんど知らなかった。
だが、
『「日本国憲法」を読み直す』を読みすすめるうちに、
この樋口陽一という人もまた、井上ひさし同様、信用に足る人物であることが
その語り口と言葉の選択の仕方と基本的姿勢から分かった。

この本を通じてぼくが学んだことは、大きく分けて次の3つである。
ひとつは、
憲法とは、その国のConstitution、つまり「国のかたち」をあらわす=デザインするものであり、
それは法(=憲)の法であり、一国の理念であるということ。
次に、
憲法とは、「権力からの自由」をうたうものであり、
権力に鎖をかける抑止力を担うものであるということ。
そして、
日本国憲法の根幹(「憲法の憲法」の憲法)をなすものは、第十三条においてうたわれている
「個人の尊重」であるとする考え方。
---
第十三条
すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、
公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。
---

司馬遼太郎は、
日本が戦争に負けたとき、なんてばかな国だろうとおもったという。
彼は、日露戦争以降、列強に追いつけ追い越せで植民地化を進めていった日本を指して、
「異胎」の国と呼んだ。
まったくちがうものになってしまったという意味である。
その異胎の国になった日本は、
戦争を通じての蛮行と不遜とその敗北により、愚かさのきわみにまで落ちた。
そこからもういちどこの国を建て直すべく掲げられた新しい灯火が、
日本国憲法だったといえよう。
その灯火を、誰がどうしてなかったことにできようか。
日本国憲法は、いわれているとおり、
その大もとをアメリカの要人が起草し、日本がそれを補ったものである。
日本側にはさまざまな葛藤があったものとおもわれる。
しかし、日本国憲法は、
それ全体が、
日本という国のあやまちの上に投げかけられた
あるいはまた、日本に限らず、広く国というあり方そのものに投げかけられた
ひとつの問いかけになっているのではなかろうかとおもう。

ぼくはまだ不勉強の身なので、
何かまちがいがあってはいけないから、ここではこれくらいにしておく。
さいごに、
ぼくが一個人として、
最大の危機感を抱く一点のことについて触れておきたい。

件の自民党の日本国憲法改定草案には、
現行憲法第十三条にある「個人」という文言が「人」に書き換えられている。
刑法において「人を殺したものは××に処する」というときの「人」だ。
この「人」という言葉には、
フランス革命において人類がはじめて権力から勝ち取った「個人」の意味合いはどこにも含まれない。
それは、動物や植物を指していうときと同レベルの表現である。
「個人」とは、この地球上において、人類がひとつひとつの場面を通じて育んできたひとつひとつの信念によって、
長い年月をかけてつくりあげてきた考え方なのである。
1946年(昭和21年)11月3日に公布され、翌年1947年(昭和22年)5月3日に施行された日本国憲法には、
人類の長きにわたる道のりと理想の魂が受け継がれている。
その「個人」を「人」と置き換えるとき、
十三条が定めるところの「個人の尊重」は、この憲法の上から消えてなくなるといっていい。
あるいは、別の何かに巧妙にすり替えられるというべきか。
それによって、
憲法の本丸中の本丸であるところの第十三条の規定を崩すということは、
日本国憲法の魂を根こぎにしようとすることと同じである。
ちなみに、同じくこの十三条にうたわれている「公共の福祉」という文言が、
自民党改定草案のどこを探しても見つからないということも付け加えておきたい。

彼らは――
国民によって選出された日本の代表者たち、権力の側に立つ数多くの者たちは、
いったい何を考えて、このような書き換えをしたがるのだろうか。
ぼくは、それを問う。
それを問う姿勢を絶対に崩してはならないと考える。
いかなる理由であれ、個人は個人の抹殺を許さないのだから。




コメント

このブログの人気の投稿

続 工場日記

その一 「痛み」

僧帽筋、脊柱起立筋、左三角筋、左手尺骨三角骨靭帯、胸鎖乳突筋…
これまでに労働をつうじて特に試練をしいられてきた主な部位たち。
なかでも胸鎖乳突筋の痛みには完全に参った。
ある夏の晩、寝ちがえる。首に経験したことのない激痛が走る。
数日前から頸部を中心に体の痛みをおぼえていたのであったが、
そこに、Liquorの過剰投与とその後のまずい体勢での寝入りが引き金となり、
トドメを刺されたかたちである。
首を回せない。寸分動かそうものなら、稲妻が走る。
そうなれば蚊の鳴くような声で泣くしかない。咀嚼もままならない。
患部を揉み揉み、なんとか読書ができるくらいまで回復したその日の晩、ふたたび激痛。
いよいよ万事休すと近くに整体院がないかを調べることに。
調べていくあいだに、寝違えのことがわかってくる。
どうも、寝違えというのは、
腋内側に走っている「腋窩(えきか)神経」が圧迫されて起こるようである。
寝違えて頸部に痛みを感じた多くの人は、首を揉んだり横に曲げて伸ばしたりするが、
これは一番行ってはいけないことなのだそうだ。
理由は、頸部の筋肉はいままさに炎症を起こし圧迫されている状態なのであって、
そこを揉めば圧迫に拍車をかけ、さらなる炎症を引き起こし痛みを悪化させるため、と。
やってはいけないことをやれば、治るものも治らない。
何かいい手はないものだろうかとおもいながらさらに調べていくと、対処法なるものを見つける。
腋窩神経を圧迫から解放してあげる有効な体操。

体操1
1. 背筋をのばし脱力。
2. 痛む側の腕を後方へ引き、少しずつ上げる。
(手首はだらりと垂らす)
2. 上がりきったところで、20秒キープ。腕をゆっくり戻す。(2セット)

体操2
1. 痛む側の手を腰に当てる。
2. 肘を後方へ引く。
3. 引ききったところで、20秒キープ。腕をゆっくり戻す。(2セット)

体操3
1. 痛む側の腕を手のひらを上にして肩の位置まで上げる。
2. 120度の角度で肘を曲げ、そのまま水平に後方へ引く。
(体はひねらず腕だけを後ろへ)
3. 引ききったところで、20秒ほどキープ。腕をゆっくり戻す。(2セット)

実際にやってみると、どうしようもなかった首の痛みが引いた。
ただ、いつあの痛みが再発するとも知れないので、しばらくは用心の日々を送ることに。

映像日記

2月14日 水
非番。復調。寒し。
週末ゴダール。インタビューや批評つまみ読み。ドゥボール。situs状況主義。インタビューは何より興味深い。
アンヌ・マリー=ミエヴィルとの共作『Comment ça va?』
ポルトガルで起きたカーネーション革命を下敷きに、「視線」についての考察が中心を流れている。
タイプライターの手を動きと文章を読む目の動きの類比。
視線を司るものは?「文章」。
画面に映し出されるタイポ文字のカーソルの動き。
文章はそれを読む(見る)視線の前で意志を持って動き、視線を監視している。
視線が文章を追うのではなく、文章が視線を追う。
映像を撮ることも映像を観ることも可能
だが、
そこにあるべき「視線」そのものを描くことは(可能かどうかというより)許されているのか?

「最後に、《俳優と観客の間にある映画》というタイポ文字のタイトルが、
 冒頭の《能動と受動の間にある映画》に打ち消された後消去され、
 カーソルだけが空しく動き続けて映画は終わる」(E/M Books 2)

文字を打つ作業と打たれた文字がそこに表象として写し出される現象とのあいだにあるものについて。
「文字を打つという作業」が、打つ人とは別の主体性で、何か別の作業を行っているという仮説に立って。
思考というものがどこから来て、その思考がどのように表象化するのか、
どのようにそれが可能なのかということについての考察へ。
司るものがあるとして。
それは打つ人の内部に?写し出される文字の側に?あるいは作業をする手に?
文字の(カーソルの)動きのほうに?
いずれもそうであってそうでない。
なぜならば、いずれかが司っているということはないから。それらは一貫して司られているといえないか。
物としての文字も文字の動きも作業する手も手を動かす意識や神経伝達の部門も、一貫して。
では何によって司られる?
その「何によって(あるいは、どうやって)」を探究する考察の上に哲学があり、
その探究の影響の上に心理学があり、その探究の質的転移(表象化)の上に芸術がある。
作業や現象が、それが可能になっていく(展開していく)過程で一貫して何かに司られているとするならば、
はじめに「受動ありき」ということがいえるのである。
能動は受動に後押しされていると(呼吸についておもいをめぐらしてみる。呼吸はまず「吐く」ありき。

みな、地球。

年始に買った築地書館の『土と内臓』(ほんとうにほんとうに面白い本)のおかげで、
幸運なことに、私のなかに微生物への愛が芽生えた。
もともと微生物に愛着はあったけれど、いよいよ全身全霊で愛していこうとおもう次第。

今回の蜆TuRe(第七號)は、海と転生というテーマでひとつ書いてみた。
ちなみに今回はタイトルが長い。
『急げブランキゆるやかに この途方もない軽さのうえへおもいをはせよ』
なんとなく、ヘンリミラーの『ビッグ・サーとヒエロニムス・ボッシュのオレンジ』みたいなアップテンポの語感がほしかった。
それはさておき、これを書いている最中、プランクトンに友情を抱き、
その友情に乗り入れるかたちで、深い微生物愛が芽生えたのだ。

なによりもまっさきに地球のことを考えたい。どうもこのごろは、そういう心情から離れられなくなりつつある。
都民ファースト都民ファーストと東の方からは聞こえてくるが、いやいや地球ファーストだろう。
この地球上のどこを切っても微生物が躍動している。土の中、海の中、空の中、さらには動物の体内までも。
微生物はいわば地球の原住民である。
はるか昔、地球の中核で煮えたぎるマグマにもっとも近い海底の墳気孔で古細菌が生まれた。
想像を絶する高温の湯に浸かりながら、酸素をいやがる嫌気性の古細菌は、
酸素をこのむ好気性の細菌との結婚のときをじっと待ち、来たるべき原生動物の誕生にそなえていた。
それから何十億年もたって、真核細胞は植物を生み、動物を生み、生命の一部は海から陸へと上がっていった。
地上では、堅い岩が気の遠くなる時間をかけて砕け、そこに動物微生物の死骸が積もり、やがて豊かな土になった。
そうやって積み重ねられた長い長い建設作業の末に、生命の原初的な土台が築かれたのである。
その歴史的事情をわきまえずに、のうのうと地球で暮らしていくのは、私はいやなのだ。
それは、なんておこがましい、なんてまずしいことか!
「私はおなかが空いた!私は飯を食いたい!」
そういって食欲を振りかざすこの私という存在は、まちがいなくこの地球で暮らしている。
そしてこの私の体のなかでは、生命の大先輩である微生物たちが暮らしているのである。
たとえば牛の体のなかはどうだろう。
牛は草を食べ、それを胃と口のあいだで何度も反芻する。
この反芻に、牛が生き延びていく上でとても重要な秘密が隠さ…