スキップしてメイン コンテンツに移動

投稿

11月, 2016の投稿を表示しています

書き手の仕事と読み手の領分 / 動き、書き、語り、読み

歩き方や話し方から、その人の人生や人柄が見えてくることがある。
にじみ出るというか。
ぼくたちは動物だから、
ちょっとでも動けば、
それだけでもう、じぶんがどんな生き物なのかを周囲に知らせてしまっている気がする。
それに、ぼくたちはほとんどの場合、そういう「動き」をもとに周囲の人を観察しているのであるし。

「動き」は語る。
では、書き方となればどうだろう。
どんな言葉を選び、どんな文を組むかで、
じぶんがどんな生き物なのかを周囲に知らせてしまっているとしたらどうだろう。
まさか。
いや、まさにそうなんだ。
読み手はよくよく観察している。
この書き手はどういう「書き」をするのか。
その「書き」は「動き」そのもので、
周囲は、「書き」によってこの書き手がどんな書き手であり、生き物であるかを見分ける。

少し前までぼくは、
「書く」というのは仮面をかぶることだと信じていた。
だいたいぼくのような軽度の離人症をひっつけた人間というのは、
なるべく生の存在を消して生きたがる。
だから、むきだしの設備をカムフラージュする建屋がほしい。
むろん、いくら建屋で囲ってみても、
その建屋内で生のぼくが、
一人走りの卑下に屈従する性癖を溶液のように垂れ流していることに変わりはないのだが。
そんな話はまアいい。
さて、
とにかく、かつてのぼくは、
書くときいつも、
こんどはどんな鉄仮面を鋳造しようかとたくらんで一人でたのしんでいたといえる。
仮面、
いいだろう。
美しくすぐれた仮面は人を魅了する。
しかし、それは、
仮面をつけた本体の精が、その仮面いっぱいに広がるときのみである。
もし、仮面が、
その本体の精を封じ、隠し、堰き止めているあいだは、
その仮面がどんなにすばらしい仮面であろうと、人を魅了しはしないだろう。
なぜならば、
人は、
仮面のむこうがわに、
本体自身をもの語る何か(その人がどんな人で、どんなふうに世界を見ているのかなど)を
見つけたいとおもっているから。
仮面は、
そのむこうがわにあるその人自身の「語り」を語ることがあらかじめ期待されている。
したがって、
生の存在をカムフラージュしようとしてつけた仮面は、
それをつけたとたん、
仮面のむこうがわにある生の存在が有しているであろう「語り」の所在を
周囲に潜在的に明かしているのである。
仮面は、語る。
それがどんなに強固…