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書き手の仕事と読み手の領分 / 動き、書き、語り、読み



歩き方や話し方から、その人の人生や人柄が見えてくることがある。
にじみ出るというか。
ぼくたちは動物だから、
ちょっとでも動けば、
それだけでもう、じぶんがどんな生き物なのかを周囲に知らせてしまっている気がする。
それに、ぼくたちはほとんどの場合、そういう「動き」をもとに周囲の人を観察しているのであるし。

「動き」は語る。
では、書き方となればどうだろう。
どんな言葉を選び、どんな文を組むかで、
じぶんがどんな生き物なのかを周囲に知らせてしまっているとしたらどうだろう。
まさか。
いや、まさにそうなんだ。
読み手はよくよく観察している。
この書き手はどういう「書き」をするのか。
その「書き」は「動き」そのもので、
周囲は、「書き」によってこの書き手がどんな書き手であり、生き物であるかを見分ける。

少し前までぼくは、
「書く」というのは仮面をかぶることだと信じていた。
だいたいぼくのような軽度の離人症をひっつけた人間というのは、
なるべく生の存在を消して生きたがる。
だから、むきだしの設備をカムフラージュする建屋がほしい。
むろん、いくら建屋で囲ってみても、
その建屋内で生のぼくが、
一人走りの卑下に屈従する性癖を溶液のように垂れ流していることに変わりはないのだが。
そんな話はまアいい。
さて、
とにかく、かつてのぼくは、
書くときいつも、
こんどはどんな鉄仮面を鋳造しようかとたくらんで一人でたのしんでいたといえる。
仮面、
いいだろう。
美しくすぐれた仮面は人を魅了する。
しかし、それは、
仮面をつけた本体の精が、その仮面いっぱいに広がるときのみである。
もし、仮面が、
その本体の精を封じ、隠し、堰き止めているあいだは、
その仮面がどんなにすばらしい仮面であろうと、人を魅了しはしないだろう。
なぜならば、
人は、
仮面のむこうがわに、
本体自身をもの語る何か(その人がどんな人で、どんなふうに世界を見ているのかなど)を
見つけたいとおもっているから。
仮面は、
そのむこうがわにあるその人自身の「語り」を語ることがあらかじめ期待されている。
したがって、
生の存在をカムフラージュしようとしてつけた仮面は、
それをつけたとたん、
仮面のむこうがわにある生の存在が有しているであろう「語り」の所在を
周囲に潜在的に明かしているのである。
仮面は、語る。
それがどんなに強固な仮面であろうとも、
それを見る人がいるかぎり、
仮面のむこうがわにある生の存在を語ることが期待されている。
期待にそむけば、人はその仮面から離れていく。
この仮面は何も語らなかった、と。

書き手が何かを書くかぎり、読み手はその書き手の人を知りたいとおもう。
なぜならば、読み手は人であり、書き手も人であるから。
くり返すが、
人は、いつも人の「語り」を求めている。
その人がどんなふうに世界を見て、そこにはどんなきらめきがあるのかを
語ってほしいとおもっている。
その「語り」に触れたいとおもう。
それは、書き手と読み手のあいだにおいても普遍的にいえることだろう。
読み手はいつも、
書き手の「書き」を読みながら、
そのむこうにある書き手の生の存在が何かを語りはじめることを期待している。
おもうに、
読み手がほんとうに触れたいのは、「書き」のむこうにある「語り」のほうではないか。
では、それを語るのはだれか?
それは、仮面でも「書き」でもなく、そのむこうがわにいるはずの生の人だ。
書き手は語ることを期待されている。
そして、読み手はそれに触れたがる。だから、読む。
触れ方はさまざまだ。
「読み」の数だけ、その触れ方は存在する。
触れ方がある以上、語り方が存在する。見せ方と言い換えてもいい。
裏をかえせば、書き手の語り方が乏しいものは、読み手には触れにくいものとなる。
語りが乏しければ、読み手にとって触れたいとおもわせる魅力に欠けてしまう。
だから、読み手にどう語る(見せる)かが、書き手の仕事となる。
そして、それにどう触れるかは、読み手の領分である。
書き手は、読み手の領分をおかしてはいけない。そこは読み手の聖域。



コメント

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映像日記

2月14日 水
非番。復調。寒し。
週末ゴダール。インタビューや批評つまみ読み。ドゥボール。situs状況主義。インタビューは何より興味深い。
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infra-mince考/『マルセル・デュシャン、メモ』No.10をめぐって

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infra-mince/アンフラマンス
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 この意味を的確に言いあらわす日本語をうまく思いつかないので、この訳稿では《極薄》という語をあてているが、
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蜆がゆく! たけうま書房さん(横浜)/汽水空港さん(鳥取)/古本 冬營舎さん(島根)

ただいま蜆は、たびかさなる細胞分裂をくりかえし、
じょじょに〝二号〟になろうとしておるところであります。


だいぶ間があいてしまいましたが、
あらたに3つの店舗で蜆TuReを取り扱っていただけることになりました。

ひとつは、横浜市中区にありますたけうま書房さん。
創刊号に掲載した短編が小学校をぶたいにした話でしたので、
ぜひ横浜の(小生はハマっ子でした)お店にも、ということで置いていただいています。

それから、鳥取県松崎の東郷池のほとりにたたずむ汽水空港さん。
ぼくは、ここの店主のモリテツヤさんのファンになりました。
踏み込んでいえば、いろいろ影響されたい(とおもわせてくれる)ひと。
モリさんは、ちょっと抜けてる、つまり、
感性がズ抜けている、あるいはひょうげているといったらいいでしょうか。
そういう感じが個人的にいたします。

そしてそして、島根におわす古本 冬營舎さん。
ぼくがいちばん置いてもらえたらうれしいのになあ、とおもっていたお店であります。
なぜそんなにうれしいか?
冬營舎さんは、シジミの日本一の産地であるあの宍道湖をのぞむお店なんですね。
もちろんヤマトシジミです。
いわばシジミの古里、いやシジミのトポスといっていいすぎることはありません。
シジミの縁。に感無量。
こちらのページでさっそくご案内くださっていました。店主さまありがとうございます)

前にもぼくは書きましたが、シジミがとれるのは汽水域です。
汽水域。あれちょっと待てよとおもい、東郷池は汽水域なのではないかと調べてみると、、
やはり。東郷池は汽水湖でした。
あ!だから、「汽水空港」という名前なんだ!とそれで気がつく鈍感なぼくです。
モリさんにおたずねしたら、東郷池でもシジミがとれるとのことでした。
なんと!すごいすごい。
日本列島ひろしといえど、シジミのとれる地域はかぎられているんですし、
まして、古書店さんがある地域はもっとかぎられているわけですから、
んー、、心がおどります。

では、たけうま書房さんはどうだろう、、とためしに調べてみますと、
ここがなんと大岡川と横浜港とが合流する汽水域に近かったのであります。


シジミがシジミをさそい、蜆TuReは日本列島を縦断していく、、と。
蜆よ、ゆけ〜!