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六號まわり(短篇一本目と図画工作中心)





十二月二日、蜆TuRe六號の原稿すべて脱稿。エッセイはネタなくて困っていたが、急に書けた。
短篇二本目はコミカルタッチなものを二日間で書き上げる。
十二月四日、絵すべて仕上がる。(データ送付完了)

言葉の配列は、魂のトーンによって決まる。
今回は、ドライなリズムで。なんとなく東海道中膝栗毛のような五七五ベースをあたまにおいて。
話の素材は、そのときもっとも関心が高いもので決まるのが定石。
11月は何かと「森」づいていた(いまも継続中)から、今號はおのずとそっちのはなしになった。
森づいたのは、熊本の文芸誌『アルテリ』二号に収載されていた平松洋子のエッセイがきっかけ。
とくに、このくだりにぐっときてしまった。


   まず、肺が視覚に飛び込んできた。色彩に喩えるなら、フラミンゴピンク。厚みのあるふたつの肺全体が、
  真珠の粉をまぶしたみたいにきらきら光っている。胃も腎臓も腸も、やはり誇らしげに輝いている。脳裏に
  浮かぶのは「美しい」という言葉だ。このメスジカは、敏捷に、賢く生きてきた。
   それにしても、一頭のメスジカがもつ言葉の、圧倒的な量と質はどうだ。掬っても掬っても、とめどなく
  溢れる泉の水さながら。おろおろと言葉の断片を拾い集めながら、私は卒然とした。野生に言葉を与えるなど、
  とんでもない思い違いだ。シカ自身、野生そのものがあらかじめ無尽蔵の言葉を有しているというのに。生命
  を閉じてもなお、こうして続々と言葉を生み出すシカ。野生は語りを止めない。問いかけてくる。
   おまえは、どれほどの言葉を汲み取ることができるのか。

                                 (「黒曜石」平松洋子/アルテリ二号)

撃ち落としたシカを猟師が段取りよくナイフでさばいていくシーン。
ぼくは、生まれてはじめて「生命」というものを感じた気がした。
生命というものは確実にあるぞ、という感じが強烈に迫って来たのである。
ヘミングウェーの名前が頭をよぎった。
この機を逃すまいと、『狩猟文学マスターピース』(みすず書房)なるアンソロジー本を求め、すぐに読んだ。
そこに載っていた「鹿の贈りもの」という作品がすこぶる面白く、
出所がリチャード・ネルソン『内なる島 ワタリガラスの贈りもの』であることを知る。
ふと、星野道夫を思い出した。
『内なる島』の序文を読んで、リチャード・ネルソンと星野道夫が友人どうしであったことも知った。
そんなこんなで、にわかに森づいてしまったぼくの「森熱」はいまだ醒めることを知らないわけだが、
今號の短篇のひとつは、その熱に支えられて「森」にまつわる寓話のようなものを独創し、書いてみた。
この話を書く前に、あるイラストができあがっていた。
二號のときもそうだったが、今回も同様、発想の中心をなす部分はイラストにインスパイアされたところが大きい。
書きはじめてすぐに、土着っぽさが匂ってきた。
思うところあって、宮田登の『ヒメの民俗学』を手に取った。
ぱらぱらとめくるうちに、どうも、ぼくの抱く物語観が「民俗」のほうを志向しているのではないかという
確信めいたものを感じようになってくる。
こうして、「森熱」にくわえ、「民俗臭」にも支えられて、短篇一本目の話はつづられていった。
できあがった世界は、動物たちが登場する童話タッチのデストピア。ある冬の物語。


森と民俗にかかわる記述を、11月のツイートからいくつか。


 アルテリで平松洋子のエッセイを読んで、ハンティングに火がついた。
 どうもこのごろ動物が好きになっていくけはいがつのりつつあるなか、
 生命とか糧とか野生とかいうものがゆらゆら揺れ動いていたところに、
 ガツンときてドクンとなってファイヤーである。都市近郊に居るのが
 ますます辛くなってきた。11月1日

 命というのは、外へ流れ出るようになっているんだとおもう。それが
 流れ出ないように守る力と、内で輝こうとする力が、生命力なんじゃ
 ないか。そして、自然というのは、そういう外へ流れ出る生命(死)
 と内で輝こうとする生命の両方に対して、「うむ」とうなずく何かで
 あるように感じる。森に行きたい。11月1日

 三號を読んで「成巫儀礼」(Pちゃんが巫女になった)を連想した、と
 M代さんがいったのを聞いたとき、へえとおもったけど、いまはもう、
 へえではすまん気が。ここにきてドドッと森が呼んでくるし、こないだ
 ギリヤーク尼ヶ崎をテレビで見ちゃったし、どうも「土着」がぷんぷん
 迫ってきてんでないのお? 11月25日

 小さな子、とりわけ女の子に、特殊な力をもたせんのが好きで、そう
 なるとこれは、巫女とかヒメのはなしだなとなって、いまひとつ退屈で
 読みかけのままになっていた宮田登の『ヒメの民俗学』をちゃんと読ん
 でみると、やっぱり。けっきょくじぶんの関心がこっちのほうに向いて
 いるのがわかってくる。 11月25日

 ぼくの発想、というものが仮にあるとして、それを根からささえる大き
 なもののひとつは「かたち」への愛着だろう。形態考。「あるものは別
 のあるものにとてもよく似ている」ということへの強い愛着。絵をかい
 てるとき、そのおもいがふつふつとわいてくる。生のなりたちのいとお
 しさとでも呼べるなにか。 11月25日


六號の図画工作。今回も、墨を用いていろいろためした。
ひとつの作品を仕上げるころには、指の先は真っ黒け。
つくりながらカタルシスが呼び起こされるようなところまで持っていけると、おもしろいものが出来上がるようだ。
それまでは、ものにならない作業をくりかえすのだが、やっているうちに、ひょんなことをきっかけに調子づく。

表1。途中で思いついて、使い古しの耳栓をつかってみた。
工事現場のコーンのような形をしたスポンジの側面に墨をつけ、いろいろ力をくわえてやってみたが、どれも不発。
墨だらけの耳栓が手からぽろんと落ちる。ころんと転がったときに、たまたま模様がついたので、これだとおもい、
こんどは意図的に紙のうえに転がしてみると、きれいに円の模様が浮かび上がった。
ついで、先の丸いところに墨をつけ、とんとんとタップするように紙に押しあててみる。
テイストグッド。キープオン、タッピング。このあたりでカタルシスがおとずれる。
ふしぎな斑点模様が浮かび上がる。
道具と偶然のモーションの組み合わせでできた模様のパターン。
今回は、ペン画は一点のみ。なめらかな線を出すのは、ほんとうにむずかしい。
何ど描いてもうまくいかないときはいかない。
描いているうちに、疲れてきて集中力がとぎれ、もとの下絵からはなれていってしまう。
手の指のシャープさ、足の指の丸み、少しの手もとの狂いでだめになる。
集中力と根気がものをいう。
これ以上はもうできないというところまで追い詰めて、切り上げる。エグゾースティッド。
全身を一度に描き切るのはたいへんだったので、けっきょく、胴体をふたつにわけ、あとでひとつにつなげた。
こういう過程で、腕の足りないことが身に沁みてわかるものだ。

タイトル頁。まず二本目のほう。
下絵を何どかやり直し、結局話のモチーフをシンボリックにあらわしたかたちに。
線と背景ともにかすれた筆ペンを用い、刷毛でぬったようなトーンが出た。
次、一本目のほう。わりと厳密に描いた下絵に筆入れしたとたん、失敗。
しかたないので、描いたモチーフをカッターで切り取り、型をつくる(かたちA)。
はじめ、輪郭だけとろうとしたが、途中でやめる。型全体に墨をぬり、
それを版画のように紙にぺたんと押しあてる。
墨のぬりぐあいで、風合いはぜんぜんちがってくる。荒いかすれたトーン。ベタがつよいトーン。
かたちが、あまり正確に出過ぎてるのは、よろしくない。
よくわからないけどぼんやりとわかる、くらいにしておくのがいい。
ぬってはぺたん、ぬってはぺたんを何どもやるうちに、かたちAがちぎれてしまう。
ちぎれたまま、かまわず続行。こうして、いくつものAができあがる。
さいごは、チャンクで切りとり(適当)、並び替えてパズルのように貼り合わせる。このさいごの作業が、もっともゆかい。

表4。一本目のタイトル頁の下絵から、さっきとはちがうモチーフを切り取り(かたちB)、墨ぬり紙に押す。
これも何どもやっているうちに、ちぎれる。ちぎれたことを逆手にとって、続行。
ようやく納得のいくトーンとレイアウトに。
さらに、そのモチーフのまわりの余白に、墨をつけた画用紙の角片を叩きつけていく。このあたりで、カタルシス。
樹皮のようなトーンが出る。耳栓につぐ新たな手法を見つけた。

ありもので工作するブリコラージュは、やはりおもしろい。紙と墨と格闘する机のうえは戦場である。
プロレスリングともいえる。
めちゃくちゃだが、そのぶん血がかよってる。
文筆はどうか。血がかよっているだろうか?体良くやろうとしていないだろうか?
まだまだ、サブスタンスとしての言葉にとどまっている気がしてならない今日このごろである。



風景「あとに残ったもの」


道具





コメント

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続 工場日記

その一 「痛み」

僧帽筋、脊柱起立筋、左三角筋、左手尺骨三角骨靭帯、胸鎖乳突筋…
これまでに労働をつうじて特に試練をしいられてきた主な部位たち。
なかでも胸鎖乳突筋の痛みには完全に参った。
ある夏の晩、寝ちがえる。首に経験したことのない激痛が走る。
数日前から頸部を中心に体の痛みをおぼえていたのであったが、
そこに、Liquorの過剰投与とその後のまずい体勢での寝入りが引き金となり、
トドメを刺されたかたちである。
首を回せない。寸分動かそうものなら、稲妻が走る。
そうなれば蚊の鳴くような声で泣くしかない。咀嚼もままならない。
患部を揉み揉み、なんとか読書ができるくらいまで回復したその日の晩、ふたたび激痛。
いよいよ万事休すと近くに整体院がないかを調べることに。
調べていくあいだに、寝違えのことがわかってくる。
どうも、寝違えというのは、
腋内側に走っている「腋窩(えきか)神経」が圧迫されて起こるようである。
寝違えて頸部に痛みを感じた多くの人は、首を揉んだり横に曲げて伸ばしたりするが、
これは一番行ってはいけないことなのだそうだ。
理由は、頸部の筋肉はいままさに炎症を起こし圧迫されている状態なのであって、
そこを揉めば圧迫に拍車をかけ、さらなる炎症を引き起こし痛みを悪化させるため、と。
やってはいけないことをやれば、治るものも治らない。
何かいい手はないものだろうかとおもいながらさらに調べていくと、対処法なるものを見つける。
腋窩神経を圧迫から解放してあげる有効な体操。

体操1
1. 背筋をのばし脱力。
2. 痛む側の腕を後方へ引き、少しずつ上げる。
(手首はだらりと垂らす)
2. 上がりきったところで、20秒キープ。腕をゆっくり戻す。(2セット)

体操2
1. 痛む側の手を腰に当てる。
2. 肘を後方へ引く。
3. 引ききったところで、20秒キープ。腕をゆっくり戻す。(2セット)

体操3
1. 痛む側の腕を手のひらを上にして肩の位置まで上げる。
2. 120度の角度で肘を曲げ、そのまま水平に後方へ引く。
(体はひねらず腕だけを後ろへ)
3. 引ききったところで、20秒ほどキープ。腕をゆっくり戻す。(2セット)

実際にやってみると、どうしようもなかった首の痛みが引いた。
ただ、いつあの痛みが再発するとも知れないので、しばらくは用心の日々を送ることに。

映像日記

2月14日 水
非番。復調。寒し。
週末ゴダール。インタビューや批評つまみ読み。ドゥボール。situs状況主義。インタビューは何より興味深い。
アンヌ・マリー=ミエヴィルとの共作『Comment ça va?』
ポルトガルで起きたカーネーション革命を下敷きに、「視線」についての考察が中心を流れている。
タイプライターの手を動きと文章を読む目の動きの類比。
視線を司るものは?「文章」。
画面に映し出されるタイポ文字のカーソルの動き。
文章はそれを読む(見る)視線の前で意志を持って動き、視線を監視している。
視線が文章を追うのではなく、文章が視線を追う。
映像を撮ることも映像を観ることも可能
だが、
そこにあるべき「視線」そのものを描くことは(可能かどうかというより)許されているのか?

「最後に、《俳優と観客の間にある映画》というタイポ文字のタイトルが、
 冒頭の《能動と受動の間にある映画》に打ち消された後消去され、
 カーソルだけが空しく動き続けて映画は終わる」(E/M Books 2)

文字を打つ作業と打たれた文字がそこに表象として写し出される現象とのあいだにあるものについて。
「文字を打つという作業」が、打つ人とは別の主体性で、何か別の作業を行っているという仮説に立って。
思考というものがどこから来て、その思考がどのように表象化するのか、
どのようにそれが可能なのかということについての考察へ。
司るものがあるとして。
それは打つ人の内部に?写し出される文字の側に?あるいは作業をする手に?
文字の(カーソルの)動きのほうに?
いずれもそうであってそうでない。
なぜならば、いずれかが司っているということはないから。それらは一貫して司られているといえないか。
物としての文字も文字の動きも作業する手も手を動かす意識や神経伝達の部門も、一貫して。
では何によって司られる?
その「何によって(あるいは、どうやって)」を探究する考察の上に哲学があり、
その探究の影響の上に心理学があり、その探究の質的転移(表象化)の上に芸術がある。
作業や現象が、それが可能になっていく(展開していく)過程で一貫して何かに司られているとするならば、
はじめに「受動ありき」ということがいえるのである。
能動は受動に後押しされていると(呼吸についておもいをめぐらしてみる。呼吸はまず「吐く」ありき。

みな、地球。

年始に買った築地書館の『土と内臓』(ほんとうにほんとうに面白い本)のおかげで、
幸運なことに、私のなかに微生物への愛が芽生えた。
もともと微生物に愛着はあったけれど、いよいよ全身全霊で愛していこうとおもう次第。

今回の蜆TuRe(第七號)は、海と転生というテーマでひとつ書いてみた。
ちなみに今回はタイトルが長い。
『急げブランキゆるやかに この途方もない軽さのうえへおもいをはせよ』
なんとなく、ヘンリミラーの『ビッグ・サーとヒエロニムス・ボッシュのオレンジ』みたいなアップテンポの語感がほしかった。
それはさておき、これを書いている最中、プランクトンに友情を抱き、
その友情に乗り入れるかたちで、深い微生物愛が芽生えたのだ。

なによりもまっさきに地球のことを考えたい。どうもこのごろは、そういう心情から離れられなくなりつつある。
都民ファースト都民ファーストと東の方からは聞こえてくるが、いやいや地球ファーストだろう。
この地球上のどこを切っても微生物が躍動している。土の中、海の中、空の中、さらには動物の体内までも。
微生物はいわば地球の原住民である。
はるか昔、地球の中核で煮えたぎるマグマにもっとも近い海底の墳気孔で古細菌が生まれた。
想像を絶する高温の湯に浸かりながら、酸素をいやがる嫌気性の古細菌は、
酸素をこのむ好気性の細菌との結婚のときをじっと待ち、来たるべき原生動物の誕生にそなえていた。
それから何十億年もたって、真核細胞は植物を生み、動物を生み、生命の一部は海から陸へと上がっていった。
地上では、堅い岩が気の遠くなる時間をかけて砕け、そこに動物微生物の死骸が積もり、やがて豊かな土になった。
そうやって積み重ねられた長い長い建設作業の末に、生命の原初的な土台が築かれたのである。
その歴史的事情をわきまえずに、のうのうと地球で暮らしていくのは、私はいやなのだ。
それは、なんておこがましい、なんてまずしいことか!
「私はおなかが空いた!私は飯を食いたい!」
そういって食欲を振りかざすこの私という存在は、まちがいなくこの地球で暮らしている。
そしてこの私の体のなかでは、生命の大先輩である微生物たちが暮らしているのである。
たとえば牛の体のなかはどうだろう。
牛は草を食べ、それを胃と口のあいだで何度も反芻する。
この反芻に、牛が生き延びていく上でとても重要な秘密が隠さ…