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工場日記3





工場における労働が、ぼくという一人の人間に及ぼす影響は想定外に大きなものだった。
生活精神と呼べるものの色合いが、まるで夜が明けていく空のごとくに変わっていったのである。
労働を欲する側と労働を与える側との相関性、労働のなかみとそれに従事する人間の特性との相性、
少なくとも、これらのバランスのよさが潜在的に好循環を生む担保になっていたことはたしかだ。
社会的な接触や相互干渉が生まれたことも、背景としてはもちろんある。
だが、今回の変化は、そのことにとどまらない。
ある労働(または、ある労働現場)が一人間の生活精神を変えるまでの効能をもたらすとき、
そこには必ず何かもっと自発的な意志が起きているはずなのである。
この自発的な何かとはいったい何なのかと考えてみると、ひとつのことに行き当たる。
それは、みずから環境をつくり出すということ。
与えられた条件と労働環境に基づいて、さらに一連の作業を通じて、
何か自分なりの環境をそこから導き出すことに成功したときはじめて、一人間のなかに変化が生じる。
そういうことなのではないだろうか。
たとえば、場にのまれそうになるときに、「あせるな。自分のペースを守れ」と自分に言い聞かせてやることが
できるかどうか。もし言い聞かせてその通りに動ければ、自分のリズムを獲得することができる。
あるいはもっと瑣末なことでいえば、どんな些細なことや、こんなことを聞くのは恥ずかしいというようなことでも、
周りの人に聞くことができるかどうか。年長者に対してだけでなく、自分と十歳以上離れた若者にも、
同じような態度で接することができるかどうか。「ありがとう」「すみません」という言葉が素直に出てくるかどうか。
自分という一人の人間が抱える矜持や性分や感情を、後回しにできるかどうか。あるいは折り合いをつけられるかどうか。
そうした現場への積極的なかかわりや他者とのやりとり、そのつどの受容と応対をくり返していくうちに、
与えられたものではない自主的な環境が空気の層のようにして自分のまわりにつくり出されていく。
もちろん、環境というのは生ものだから、うまくいかないこともある。
少しの迷いや、周囲の風向きの変化で、人間はバランスを失うもの。判断も鈍るし、循環もくずれてしまう。
そうなりきらずに、そうなりそうなところで何とか挽回して持ち直すのに役立つものが二つある。
一つは、いま自分が従事している仕事が、一体何のための作業なのかというところにすぐ立ち返ること。
つまりそれは、できるだけよい品質のモノ(商品)を決められた時間までにつくりあげること。
一つひとつの工程が、次の工程へと引き継がれていくために存在しているということを忘れないこと。
こうした目的観を失わないで仕事をつづけることができれば、多少の個人的事情(矜持や性分や感情)は仕事の邪魔にならずに済む。
自分と他者(他の労働者)とのあいだの垣根も低くなり、隣人愛すら芽生えてくる。
他の労働者が何か困っていれば、声をかけたり、助けてあげられるようになる。
自分の評価を上げたいから他者を気遣うのではない。
集団の力で何かよい仕事をしようとするとき、他者を助けるということはその現場にいるみなにとって役に立つ。
集団のパフォーマンスをあげるために、個人としてベストを尽くす。
これが労働者に求められる基本的態度であり、ぼくの信条でもある。
けれども、実際には個人個人でパフォーマンスに差が生まれる。それは当たり前で、いけないことではない。
少しでも集団としてのパフォーマンスを上げるためには、個人レベルでの差を互いに補っていけばよいのである。
早い話が、今日こなすべき総数を、何とかしてこなせばいいのだから、もしAさんが200しか仕事ができなかったとしても、
代わりにBさんが600をこなせば万事よろしいわけである。
大切なのは、「ベストを尽くす」こと。これが、ピンチのときに役立つもう一つのおまじないである。
ベストを尽くしていれば、必ずどこかでよい循環が生まれるチャンスがある。





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続 工場日記

その一 「痛み」

僧帽筋、脊柱起立筋、左三角筋、左手尺骨三角骨靭帯、胸鎖乳突筋…
これまでに労働をつうじて特に試練をしいられてきた主な部位たち。
なかでも胸鎖乳突筋の痛みには完全に参った。
ある夏の晩、寝ちがえる。首に経験したことのない激痛が走る。
数日前から頸部を中心に体の痛みをおぼえていたのであったが、
そこに、Liquorの過剰投与とその後のまずい体勢での寝入りが引き金となり、
トドメを刺されたかたちである。
首を回せない。寸分動かそうものなら、稲妻が走る。
そうなれば蚊の鳴くような声で泣くしかない。咀嚼もままならない。
患部を揉み揉み、なんとか読書ができるくらいまで回復したその日の晩、ふたたび激痛。
いよいよ万事休すと近くに整体院がないかを調べることに。
調べていくあいだに、寝違えのことがわかってくる。
どうも、寝違えというのは、
腋内側に走っている「腋窩(えきか)神経」が圧迫されて起こるようである。
寝違えて頸部に痛みを感じた多くの人は、首を揉んだり横に曲げて伸ばしたりするが、
これは一番行ってはいけないことなのだそうだ。
理由は、頸部の筋肉はいままさに炎症を起こし圧迫されている状態なのであって、
そこを揉めば圧迫に拍車をかけ、さらなる炎症を引き起こし痛みを悪化させるため、と。
やってはいけないことをやれば、治るものも治らない。
何かいい手はないものだろうかとおもいながらさらに調べていくと、対処法なるものを見つける。
腋窩神経を圧迫から解放してあげる有効な体操。

体操1
1. 背筋をのばし脱力。
2. 痛む側の腕を後方へ引き、少しずつ上げる。
(手首はだらりと垂らす)
2. 上がりきったところで、20秒キープ。腕をゆっくり戻す。(2セット)

体操2
1. 痛む側の手を腰に当てる。
2. 肘を後方へ引く。
3. 引ききったところで、20秒キープ。腕をゆっくり戻す。(2セット)

体操3
1. 痛む側の腕を手のひらを上にして肩の位置まで上げる。
2. 120度の角度で肘を曲げ、そのまま水平に後方へ引く。
(体はひねらず腕だけを後ろへ)
3. 引ききったところで、20秒ほどキープ。腕をゆっくり戻す。(2セット)

実際にやってみると、どうしようもなかった首の痛みが引いた。
ただ、いつあの痛みが再発するとも知れないので、しばらくは用心の日々を送ることに。

映像日記

2月14日 水
非番。復調。寒し。
週末ゴダール。インタビューや批評つまみ読み。ドゥボール。situs状況主義。インタビューは何より興味深い。
アンヌ・マリー=ミエヴィルとの共作『Comment ça va?』
ポルトガルで起きたカーネーション革命を下敷きに、「視線」についての考察が中心を流れている。
タイプライターの手を動きと文章を読む目の動きの類比。
視線を司るものは?「文章」。
画面に映し出されるタイポ文字のカーソルの動き。
文章はそれを読む(見る)視線の前で意志を持って動き、視線を監視している。
視線が文章を追うのではなく、文章が視線を追う。
映像を撮ることも映像を観ることも可能
だが、
そこにあるべき「視線」そのものを描くことは(可能かどうかというより)許されているのか?

「最後に、《俳優と観客の間にある映画》というタイポ文字のタイトルが、
 冒頭の《能動と受動の間にある映画》に打ち消された後消去され、
 カーソルだけが空しく動き続けて映画は終わる」(E/M Books 2)

文字を打つ作業と打たれた文字がそこに表象として写し出される現象とのあいだにあるものについて。
「文字を打つという作業」が、打つ人とは別の主体性で、何か別の作業を行っているという仮説に立って。
思考というものがどこから来て、その思考がどのように表象化するのか、
どのようにそれが可能なのかということについての考察へ。
司るものがあるとして。
それは打つ人の内部に?写し出される文字の側に?あるいは作業をする手に?
文字の(カーソルの)動きのほうに?
いずれもそうであってそうでない。
なぜならば、いずれかが司っているということはないから。それらは一貫して司られているといえないか。
物としての文字も文字の動きも作業する手も手を動かす意識や神経伝達の部門も、一貫して。
では何によって司られる?
その「何によって(あるいは、どうやって)」を探究する考察の上に哲学があり、
その探究の影響の上に心理学があり、その探究の質的転移(表象化)の上に芸術がある。
作業や現象が、それが可能になっていく(展開していく)過程で一貫して何かに司られているとするならば、
はじめに「受動ありき」ということがいえるのである。
能動は受動に後押しされていると(呼吸についておもいをめぐらしてみる。呼吸はまず「吐く」ありき。

みな、地球。

年始に買った築地書館の『土と内臓』(ほんとうにほんとうに面白い本)のおかげで、
幸運なことに、私のなかに微生物への愛が芽生えた。
もともと微生物に愛着はあったけれど、いよいよ全身全霊で愛していこうとおもう次第。

今回の蜆TuRe(第七號)は、海と転生というテーマでひとつ書いてみた。
ちなみに今回はタイトルが長い。
『急げブランキゆるやかに この途方もない軽さのうえへおもいをはせよ』
なんとなく、ヘンリミラーの『ビッグ・サーとヒエロニムス・ボッシュのオレンジ』みたいなアップテンポの語感がほしかった。
それはさておき、これを書いている最中、プランクトンに友情を抱き、
その友情に乗り入れるかたちで、深い微生物愛が芽生えたのだ。

なによりもまっさきに地球のことを考えたい。どうもこのごろは、そういう心情から離れられなくなりつつある。
都民ファースト都民ファーストと東の方からは聞こえてくるが、いやいや地球ファーストだろう。
この地球上のどこを切っても微生物が躍動している。土の中、海の中、空の中、さらには動物の体内までも。
微生物はいわば地球の原住民である。
はるか昔、地球の中核で煮えたぎるマグマにもっとも近い海底の墳気孔で古細菌が生まれた。
想像を絶する高温の湯に浸かりながら、酸素をいやがる嫌気性の古細菌は、
酸素をこのむ好気性の細菌との結婚のときをじっと待ち、来たるべき原生動物の誕生にそなえていた。
それから何十億年もたって、真核細胞は植物を生み、動物を生み、生命の一部は海から陸へと上がっていった。
地上では、堅い岩が気の遠くなる時間をかけて砕け、そこに動物微生物の死骸が積もり、やがて豊かな土になった。
そうやって積み重ねられた長い長い建設作業の末に、生命の原初的な土台が築かれたのである。
その歴史的事情をわきまえずに、のうのうと地球で暮らしていくのは、私はいやなのだ。
それは、なんておこがましい、なんてまずしいことか!
「私はおなかが空いた!私は飯を食いたい!」
そういって食欲を振りかざすこの私という存在は、まちがいなくこの地球で暮らしている。
そしてこの私の体のなかでは、生命の大先輩である微生物たちが暮らしているのである。
たとえば牛の体のなかはどうだろう。
牛は草を食べ、それを胃と口のあいだで何度も反芻する。
この反芻に、牛が生き延びていく上でとても重要な秘密が隠さ…