スキップしてメイン コンテンツに移動

工場日記4 鋏は偉い

   


鋏は偉い。
この仕事をはじめてから数日経ったころ、鋏の原理というものに気づかされた。
鋏というのは実によく出来ていて、「直線を切る」という仕事をこなすための立派な構造を持っている。
そして、事実、その仕事を立派にこなす。だから、鋏は偉い。
さて、では、この鋏という道具を用いる人間が守るべきことは何か?
答えはひとつ。鋏の仕事の邪魔をしないことである。つまり、人間は、鋏のする通りにすればいい。

鋏の物理は、次の三つから成る。
二つの刃が交叉する部分(支点)、グリップ部分(力点)、支点から刃先までの部分(作用点)。
つまり、鋏はテコの原理から成っている。
刃の長さが20cmある鋏を用いて20cmの切り込みを入れるとき、もっとも小さい力で切るためにはどうするか。
手続きとしてわざわざ言語化してみるとこうなる。
まず、グリップを握り、切り込みたい始点に鋏の支点を当てがうと同時に20cm先の終点を目測する。
始点と終点が定まったら、グリップの力点に力をかけ、二点を結ぶ20cmの直線にそって鋏の刃を入れる。
このとき、力点にかかった力は、テコの原理によって作用点に移り、
この力の移動に合わせて、刃は始点から終点までの距離(刃と同じ長さ)を滑り、20cmの切り込みが入る。
いま、切り込みを入れたい長さと刃の長さが同じなので、力の大きさは1で済む。
切り込みたい長さが40cmの場合は、刃の長さが20cmだから、
刃の長さ(20cm)×力の大きさ(2)=切り込みたい長さ(40cm)で、力の大きさは2必要となる。

つまり、切る長さが20cmのときは、「1つのアクション」かつ「もっとも小さい力」で仕事ができるということだ。
何をいまさらという話ではあるが、この原理を知っているのと知らないのとでは、仕事の質と量がまったく変わってくる。
ぼくが工場の現場で使っているのは、いわゆる裁ち鋏で、刃の長さは25cmくらい。
切るモノ(本のカバーの端)の長さは、モノによってまちまちだが、
たとえば、
文庫本や新書、単行本などは25cm以下なので、原理的には1つ(1回)のアクションで切り落とすことができる。
ただ、鋏の刃というのは、力のかけ方と(始点への)刃の入れ方をまちがうと、アサッテの方向へいくことが多々ある。
特にスピードをつけているときは誤差が生じやすい。紙の硬度や紙質にも左右される。
そういうときは、途中で軌道修正をかけなければならないので、1+追加のアクションが発生する。
慣れてくると、どんな判型(大型の絵本から文庫まで)でも3以内のアクションで仕事ができるようになる。
できる人とそうでない人のちがいは、もちろんこれは見れば分かるのだが、見なくても鋏が立てる音でだいたい分かる。
いい仕事をしている鋏の音は、シャーン、シャーン、と鳴る。
まあまあの場合は、シュキン…シュキン…、ぜんぜんの場合は、ジョキッ…ジョキッ…という具合である。

以上、鋏は偉いという話でした。





日を重ねるうちに「鋏ダコ」ができてくるのだが、
鋏を握るときに圧がかかるため、素手だとまだ痛い。
なので、毎日絆創膏を巻いて作業するのだが、絆創
膏は作業中に剥がれてくるのでよろしくない。
というわけで、
昨日、もう履かなくなった古靴の(スニーカー
のタンの部位)から親指用の「指ぬき」をつくっ
みた。ちなみに、42とあるのは靴のサイズのこと。




コメント

  1. 追記
    実際に1アクションで鋏を入れるのには、それなりに勇気がいる。あまりに切り損ねると、修正が効かないから。しかし、鋏を信じ、鋏と一体になれれば、勇気百倍である。恐れずゆけ。

    返信削除

コメントを投稿

このブログの人気の投稿

続 工場日記

その一 「痛み」

僧帽筋、脊柱起立筋、左三角筋、左手尺骨三角骨靭帯、胸鎖乳突筋…
これまでに労働をつうじて特に試練をしいられてきた主な部位たち。
なかでも胸鎖乳突筋の痛みには完全に参った。
ある夏の晩、寝ちがえる。首に経験したことのない激痛が走る。
数日前から頸部を中心に体の痛みをおぼえていたのであったが、
そこに、Liquorの過剰投与とその後のまずい体勢での寝入りが引き金となり、
トドメを刺されたかたちである。
首を回せない。寸分動かそうものなら、稲妻が走る。
そうなれば蚊の鳴くような声で泣くしかない。咀嚼もままならない。
患部を揉み揉み、なんとか読書ができるくらいまで回復したその日の晩、ふたたび激痛。
いよいよ万事休すと近くに整体院がないかを調べることに。
調べていくあいだに、寝違えのことがわかってくる。
どうも、寝違えというのは、
腋内側に走っている「腋窩(えきか)神経」が圧迫されて起こるようである。
寝違えて頸部に痛みを感じた多くの人は、首を揉んだり横に曲げて伸ばしたりするが、
これは一番行ってはいけないことなのだそうだ。
理由は、頸部の筋肉はいままさに炎症を起こし圧迫されている状態なのであって、
そこを揉めば圧迫に拍車をかけ、さらなる炎症を引き起こし痛みを悪化させるため、と。
やってはいけないことをやれば、治るものも治らない。
何かいい手はないものだろうかとおもいながらさらに調べていくと、対処法なるものを見つける。
腋窩神経を圧迫から解放してあげる有効な体操。

体操1
1. 背筋をのばし脱力。
2. 痛む側の腕を後方へ引き、少しずつ上げる。
(手首はだらりと垂らす)
2. 上がりきったところで、20秒キープ。腕をゆっくり戻す。(2セット)

体操2
1. 痛む側の手を腰に当てる。
2. 肘を後方へ引く。
3. 引ききったところで、20秒キープ。腕をゆっくり戻す。(2セット)

体操3
1. 痛む側の腕を手のひらを上にして肩の位置まで上げる。
2. 120度の角度で肘を曲げ、そのまま水平に後方へ引く。
(体はひねらず腕だけを後ろへ)
3. 引ききったところで、20秒ほどキープ。腕をゆっくり戻す。(2セット)

実際にやってみると、どうしようもなかった首の痛みが引いた。
ただ、いつあの痛みが再発するとも知れないので、しばらくは用心の日々を送ることに。

映像日記

2月14日 水
非番。復調。寒し。
週末ゴダール。インタビューや批評つまみ読み。ドゥボール。situs状況主義。インタビューは何より興味深い。
アンヌ・マリー=ミエヴィルとの共作『Comment ça va?』
ポルトガルで起きたカーネーション革命を下敷きに、「視線」についての考察が中心を流れている。
タイプライターの手を動きと文章を読む目の動きの類比。
視線を司るものは?「文章」。
画面に映し出されるタイポ文字のカーソルの動き。
文章はそれを読む(見る)視線の前で意志を持って動き、視線を監視している。
視線が文章を追うのではなく、文章が視線を追う。
映像を撮ることも映像を観ることも可能
だが、
そこにあるべき「視線」そのものを描くことは(可能かどうかというより)許されているのか?

「最後に、《俳優と観客の間にある映画》というタイポ文字のタイトルが、
 冒頭の《能動と受動の間にある映画》に打ち消された後消去され、
 カーソルだけが空しく動き続けて映画は終わる」(E/M Books 2)

文字を打つ作業と打たれた文字がそこに表象として写し出される現象とのあいだにあるものについて。
「文字を打つという作業」が、打つ人とは別の主体性で、何か別の作業を行っているという仮説に立って。
思考というものがどこから来て、その思考がどのように表象化するのか、
どのようにそれが可能なのかということについての考察へ。
司るものがあるとして。
それは打つ人の内部に?写し出される文字の側に?あるいは作業をする手に?
文字の(カーソルの)動きのほうに?
いずれもそうであってそうでない。
なぜならば、いずれかが司っているということはないから。それらは一貫して司られているといえないか。
物としての文字も文字の動きも作業する手も手を動かす意識や神経伝達の部門も、一貫して。
では何によって司られる?
その「何によって(あるいは、どうやって)」を探究する考察の上に哲学があり、
その探究の影響の上に心理学があり、その探究の質的転移(表象化)の上に芸術がある。
作業や現象が、それが可能になっていく(展開していく)過程で一貫して何かに司られているとするならば、
はじめに「受動ありき」ということがいえるのである。
能動は受動に後押しされていると(呼吸についておもいをめぐらしてみる。呼吸はまず「吐く」ありき。

みな、地球。

年始に買った築地書館の『土と内臓』(ほんとうにほんとうに面白い本)のおかげで、
幸運なことに、私のなかに微生物への愛が芽生えた。
もともと微生物に愛着はあったけれど、いよいよ全身全霊で愛していこうとおもう次第。

今回の蜆TuRe(第七號)は、海と転生というテーマでひとつ書いてみた。
ちなみに今回はタイトルが長い。
『急げブランキゆるやかに この途方もない軽さのうえへおもいをはせよ』
なんとなく、ヘンリミラーの『ビッグ・サーとヒエロニムス・ボッシュのオレンジ』みたいなアップテンポの語感がほしかった。
それはさておき、これを書いている最中、プランクトンに友情を抱き、
その友情に乗り入れるかたちで、深い微生物愛が芽生えたのだ。

なによりもまっさきに地球のことを考えたい。どうもこのごろは、そういう心情から離れられなくなりつつある。
都民ファースト都民ファーストと東の方からは聞こえてくるが、いやいや地球ファーストだろう。
この地球上のどこを切っても微生物が躍動している。土の中、海の中、空の中、さらには動物の体内までも。
微生物はいわば地球の原住民である。
はるか昔、地球の中核で煮えたぎるマグマにもっとも近い海底の墳気孔で古細菌が生まれた。
想像を絶する高温の湯に浸かりながら、酸素をいやがる嫌気性の古細菌は、
酸素をこのむ好気性の細菌との結婚のときをじっと待ち、来たるべき原生動物の誕生にそなえていた。
それから何十億年もたって、真核細胞は植物を生み、動物を生み、生命の一部は海から陸へと上がっていった。
地上では、堅い岩が気の遠くなる時間をかけて砕け、そこに動物微生物の死骸が積もり、やがて豊かな土になった。
そうやって積み重ねられた長い長い建設作業の末に、生命の原初的な土台が築かれたのである。
その歴史的事情をわきまえずに、のうのうと地球で暮らしていくのは、私はいやなのだ。
それは、なんておこがましい、なんてまずしいことか!
「私はおなかが空いた!私は飯を食いたい!」
そういって食欲を振りかざすこの私という存在は、まちがいなくこの地球で暮らしている。
そしてこの私の体のなかでは、生命の大先輩である微生物たちが暮らしているのである。
たとえば牛の体のなかはどうだろう。
牛は草を食べ、それを胃と口のあいだで何度も反芻する。
この反芻に、牛が生き延びていく上でとても重要な秘密が隠さ…