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SPICE IS THE PLACE!




このごろ、おれの精神の小屋は、スパイスやら薬味やらといったものでぷんぷんしている。
もともと漢方には関心があった。
や、関心というのではちょっと浅すぎる。もっと深いところでハートがくすぐられる何か。
医心方という江戸に書かれた漢方の本があるが、あれなんかめくってると、気分はサイコーだ。
古い百味箪笥がうちにある。漢方薬を入れる小引き出しが縦横にずらり並んでいるのだが、
昔はどの図書館にもかならず置いてあったカード目録の棚に感じが似ている。
引き出しの数は、横十一かける縦八で八十八杯。
ひとつひとつに薬味の名前がしるされたラベルが貼ってあって、それがなんともいい。
字面を見ているだけで、ワクワクする。
で、この引き出しを何に使っているかというと、いまのところは、
顆粒(かつおダシ、鶏がら)とか、かつお節とか、ダシ昆布とか、お茶とか、胡椒とかの在庫を
入れたりしている。なにせ八十八もあるので、ほとんど空。
いずれ、この百味箪笥がスパイスでいっぱいになるときがくるだろう。

スパイスにはさほど関心がなかった。カクテルに関心がないのと同じように。
おれが急にスパイスがかってきたのは、春の終わりから夏にかけてだ。
Sun Ra漬けの夏。SPACE IS THE PLACE SPACE IS THE PLACE、、。呪文のような。
昼の休みに読んでいたのは、ミシェルレリスのアフリカ日記。気分はアフリカ的魔術使い。
色がほしくて、身につけたくて、リネンの古着シャツを買いまくって、
いろんな色の石を買いあさって、
赤いものにハートが揺さぶられてしようがなくなって、トウガラシが無性に恋しくなって、
カレールーでカレーをつくりながら
そういえばこのカレー粉っていうのは何でできてるんだろうかとか気になりはじめて、
シナモン、レモングラス、コリアンダー、クローブという単語を見聞きしてると、
どうにもそわそわしてきて、もっと辛さを!なんて心のなかで叫びはじめて、
チリソースとかハバネロソースとかが台所に並ぶようになる。
じつは、スパイスがかるちょっとまえに、
ユングが来ていた。サイコロジーよりも、オカルティズム。赤の書のほう。
ふたまわりくらいして、ようやくおれもここへ帰って来れたとおもったものだ。
そんなフィーバーでもって蜆TuRe八號の必殺ワタナベ!なんかを書いたりするうちに、
ほんかくてきに赤がかってきて、トウガラシが無性に恋しくなってきてしまった。
で、そこでもういちど医心方にもどって、よくよくつきつめてみると、
おれはどうやら仙人になりたいんだということがはっきりした。ここで葛洪が再来。
神仙思想。錬金術、占星術、易経、鉱物学、漢方薬がすっぽり入ってくる。了解。
それをはさんで、スパイス教へ入信。SPICE IS THE PLACE!
スパイスの本が棚に並ぶ。
昼休み。トウガラシの歴史なる本を読んで過ごす。Sun Ra漬けから足をあらい、
観世流謡曲羽衣に入り浸る。
こんなとき松の一本でも生えていればどんなによいことだろうとおもいながら、
秋の風と光にしみじみする世紀末である。

では、Cara Delevingne!


チゲナベ食べいこーよー!




コメント

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映像日記

2月14日 水
非番。復調。寒し。
週末ゴダール。インタビューや批評つまみ読み。ドゥボール。situs状況主義。インタビューは何より興味深い。
アンヌ・マリー=ミエヴィルとの共作『Comment ça va?』
ポルトガルで起きたカーネーション革命を下敷きに、「視線」についての考察が中心を流れている。
タイプライターの手を動きと文章を読む目の動きの類比。
視線を司るものは?「文章」。
画面に映し出されるタイポ文字のカーソルの動き。
文章はそれを読む(見る)視線の前で意志を持って動き、視線を監視している。
視線が文章を追うのではなく、文章が視線を追う。
映像を撮ることも映像を観ることも可能
だが、
そこにあるべき「視線」そのものを描くことは(可能かどうかというより)許されているのか?

「最後に、《俳優と観客の間にある映画》というタイポ文字のタイトルが、
 冒頭の《能動と受動の間にある映画》に打ち消された後消去され、
 カーソルだけが空しく動き続けて映画は終わる」(E/M Books 2)

文字を打つ作業と打たれた文字がそこに表象として写し出される現象とのあいだにあるものについて。
「文字を打つという作業」が、打つ人とは別の主体性で、何か別の作業を行っているという仮説に立って。
思考というものがどこから来て、その思考がどのように表象化するのか、
どのようにそれが可能なのかということについての考察へ。
司るものがあるとして。
それは打つ人の内部に?写し出される文字の側に?あるいは作業をする手に?
文字の(カーソルの)動きのほうに?
いずれもそうであってそうでない。
なぜならば、いずれかが司っているということはないから。それらは一貫して司られているといえないか。
物としての文字も文字の動きも作業する手も手を動かす意識や神経伝達の部門も、一貫して。
では何によって司られる?
その「何によって(あるいは、どうやって)」を探究する考察の上に哲学があり、
その探究の影響の上に心理学があり、その探究の質的転移(表象化)の上に芸術がある。
作業や現象が、それが可能になっていく(展開していく)過程で一貫して何かに司られているとするならば、
はじめに「受動ありき」ということがいえるのである。
能動は受動に後押しされていると(呼吸についておもいをめぐらしてみる。呼吸はまず「吐く」ありき。

infra-mince考/『マルセル・デュシャン、メモ』No.10をめぐって

Matsuoka Seigow氏が、あるとき、少人数を対象に行った講習会の場で、こんなことをお話しされた。

「いま、僕は諸君に向かってこうやってマイクでしゃべってます。僕の後ろには、ホワイトボードがあって、そこには
何か文字が書かれてる。で、ここで僕がこう、ホワイトボードのほうを振り返る。そうすると、諸君のほうを向いて
喋っている僕は、ホワイトボートのほうへ体を向ける僕へ移っていく、入れ替わっていくわけですね。そのときに、
いい?そのときに、喋っている僕と、何か書こうとして振り向くホワイトボードとの〝間〟に、何があるか、ということ
なんです。いい?そこを知りたいわけです。僕とホワイトボードの〝間〟がどうなっているか。」

数多く聞いた興味深い話のなかで、この話はいまでも私の記憶のなかに視覚情報と一緒に残っている。
「間 あいだ」というのは、Seigow氏がとても重要視している見方で、精神科医であり哲学者の木村敏さんも、
この言葉を好んで使われている。私は、あまりに頻繁にこの言葉が使われている場面に触れすぎていたのと、
あまりに簡単に使えてしまう言葉であると思っていたこともあって、意図的に用いないようにしていた。
Seigow氏が、この言葉を通して、微妙きわまりないことを説明しようとしているのは、感覚的にわかっていた。
表現へ向かう私の動機が、そういう微妙きわまりない方面に隣接しているという自覚もあった。
だから、なおのこと、言語化をする手前で据え置きしたいという気持ちがあったのである。
分かったようなつもりで口にしたくなかったのだと思う。


私がここで、わざわざこの〝間〟という言葉を引き合いに出すのは、
マルセルデュシャン(Marcel Duchamp)が残した infra-mince という暗号のような造語について、
何かを言わなければならないと思ったためである。

infra-mince/アンフラマンス
(infra-:「下部、下方」の意をあらわす接頭辞 mince:「薄い」)

岩佐鉄男氏によって、「極薄」と訳されたM.デュシャンの物の見方である。
訳者の岩佐氏は次のように言及している。

 この意味を的確に言いあらわす日本語をうまく思いつかないので、この訳稿では《極薄》という語をあてているが、
 たんに「極めて薄い」というのではなく、ちょうど赤外線infrarou…

工場日記2

3時15分から4時50分まで(おおよそ), 金属板で缶を作る. 油を塗り, 心棒に巻きつけ, 打つ. 工具が形を作る.
しかるべき側に溶接する. 終日そして昨日も立ち仕事で, へとへと. 動作はのろのろ. この缶は鋳物〈ボイラー〉班
の仲間で溶接して作った, と思うとうれしくてたまらない. この仕事のあいだ, ひとりの病気の女工を支援する募金.
1フランだす. だが, 班長はなにもいわない.時間賃[率]との差[額]は0.90フラン

10時から11時まで, 型版〈カルトン〉(その後もつづける). たやすい. やらかしそうな唯一の失態は, 詰めこみすぎ.
なのに, みごとにやらかした! レオンに罵倒される. 50サンチーム. 0.5%. 425個仕上げる. 稼ぎは2.12フラン.
記録は45分. 10時の支払は115フラン. 手当は36.75フラン. 時間賃率との差額合計は, 0.25フラン+1フラン+
0.95フラン+0.25フラン+0.90フランで, 合計2.50フランになる(この程度なら工場はつぶれまい……)

〔シモーヌ・ヴェイユ『工場日記』1935年1月2日から5日まで より〕


去年の夏、蜆TuReの印刷費とデザイン料を捻出するため、郵便局でゆうパックのバイトをした。
週5、午前6時から10時までの実働4時間。
ヴェイユ熱にほどよくおかされていたころで、つねにみすずの『ヴェイユの言葉』を手に持って出勤していた。
歩きながら本を読むという習慣を身につけたのは、前の前の年末に郵便局でバイトをしていたころ。
ひと月のあいだの行き帰りで、大江健三郎の『芽毟り仔撃ち』と遠藤周作の『沈黙』とリルケの『マルテの手記』を読了した。
それはさておき。
工場日記に打たれ、「ヴェイユも労働しているのだから」という理由だけを後ろ盾に、毎朝現場に向かっていた。
6時前になると蝉が鳴きはじめた。心地よい夏の朝の空気を吸いながら歩く道すがら。労働を水のように飲み干そうとしていた。
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パレットの上で、虫籠に入ったスズムシが鳴いていた。
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ゆっくりやろうと思えばいくらでもできる。だが、アル…