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映像日記



2月14日 水
非番。復調。寒し。
週末ゴダール。インタビューや批評つまみ読み。ドゥボール。situs状況主義。インタビューは何より興味深い。
アンヌ・マリー=ミエヴィルとの共作『Comment ça va?』
ポルトガルで起きたカーネーション革命を下敷きに、「視線」についての考察が中心を流れている。
タイプライターの手を動きと文章を読む目の動きの類比。
視線を司るものは?「文章」。
画面に映し出されるタイポ文字のカーソルの動き。
文章はそれを読む(見る)視線の前で意志を持って動き、視線を監視している。
視線が文章を追うのではなく、文章が視線を追う。
映像を撮ることも映像を観ることも可能
だが、
そこにあるべき「視線」そのものを描くことは(可能かどうかというより)許されているのか?

「最後に、《俳優と観客の間にある映画》というタイポ文字のタイトルが、
 冒頭の《能動と受動の間にある映画》に打ち消された後消去され、
 カーソルだけが空しく動き続けて映画は終わる」(E/M Books 2)

文字を打つ作業と打たれた文字がそこに表象として写し出される現象とのあいだにあるものについて。
「文字を打つという作業」が、打つ人とは別の主体性で、何か別の作業を行っているという仮説に立って。
思考というものがどこから来て、その思考がどのように表象化するのか、
どのようにそれが可能なのかということについての考察へ。
司るものがあるとして。
それは打つ人の内部に?写し出される文字の側に?あるいは作業をする手に?
文字の(カーソルの)動きのほうに?
いずれもそうであってそうでない。
なぜならば、いずれかが司っているということはないから。それらは一貫して司られているといえないか。
物としての文字も文字の動きも作業する手も手を動かす意識や神経伝達の部門も、一貫して。
では何によって司られる?
その「何によって(あるいは、どうやって)」を探究する考察の上に哲学があり、
その探究の影響の上に心理学があり、その探究の質的転移(表象化)の上に芸術がある。
作業や現象が、それが可能になっていく(展開していく)過程で一貫して何かに司られているとするならば、
はじめに「受動ありき」ということがいえるのである。
能動は受動に後押しされていると(呼吸についておもいをめぐらしてみる。呼吸はまず「吐く」ありき。
呼気に対して受け身ネガティブになっている状況をつくりだすことが条件)。
受動は自然に起こるもの。能動はそれを受けて(動き出そうと望めば)必然に動き出すもの。
行動する者は、何かを受け入れた後でそれを開始する。
受動はそれ自体ですでに能動を約束されている?能動のみの能動はあり得ない?まだ何も受け入れていないから。
あるいは受け入れることができないから。では能動とは何?能動はどこへ向かう?何を示すために?何を望んで?
受動を後押しするのが能動であるとすれば、能動を持続させている主体は何?
それは受動と能動のあいだ?
受動と能動の交互の点滅?
(同じことだ)(神は―― おそらくもっと後に出てくる)(ここではない)

中断。即再開。
発想は、何かを受け入れたしるしという意味で、受動である。発想に後押しされて、「受動と能動」が作動し出す。


2月19日 月
週末ゴダール。モンタージュ。映像解析。知覚パターン。
撮影された映像に対して受け身にならず、そこから何か本質的なものを具体的に反映し直す。
映像のモンタージュ。思考のモンタージュ。
解析を通じて映像に思考を反映させる作業。何(どういう状況)を考える必要があるかに応じて。
二つの異なるものの対置。関係を観察する作業の開始。比較。対立。矛盾。転換。置換。転移。結合。生成。
過程で展開する深い作業。
それらの作業を要請するものは?
(要請するものがモンタージュの結果に投影されるような作業)その前提として共有すべき約束。
映像を撮るという行為との共有。作業の集積。労働の価値。作品はどこにある?パッケージ。広告。「物」のなか。


2月21日 水
曇。非番。
ゴダールから、ドゥルーズ。引きつづきゴダール。
昨日までで原稿三十六枚。ストーリーとして統合させようとしないこと。
具体的描写への反発。あるいはト書きそのものへの反発。シナリオを用意することへの反発。
つまり、抑止している何かがあるとして、その抑止力を強めるのではなく、
抑止している(されている)状況が目の前にあることを(私という書き手について回る)ひとつの個別の状況として
受け入れ、その状況をそのまま描写する。
具体的描写やシーンの統合をしなければならないという意識が阻害要因であると認めた場合、
他に描写すべき(つまり私の真意が表現において実践されるために必要な)事柄を優先させることに注力するには
どうすればよいか。
そこを悩むべき。
真意の実践が、抑止によって修正を加えられることは避けること。
そこに回収されないようにするためにはどこに集中すべきかを考える。
モンタージュとは、「間」のことではないか。
モンタージュは統合へ向かわない。断片と断片の重ね合わせ(遭遇)の上においてのみ探究される。
「あ」という音を、「あ」という一音の完成を目指すものとしてではなく、
「あ」という音を生成する過程において析出できる二つの異なる音(「あ」以前)の布置を受けて成り立つもの
であるというふうに取り扱うように。
AとBがテーブルを挟んで座っている。「間」というのは、AとBをへだてているテーブルのことではない。
Aがいて、そこから少し離れてBがいる、だからそこには間が空いているというときのような「間」ではない。
AとBが少し離れて座っているという状況そのもののこと。その並びそのもの。布置され得る可能性そのもの。
AとBが少し離れて座るから「間」が生まれるというのではなく、
「間」というものがAとBとの布置を可能にしているという見方。
先に「間」があってその後にAとBの配置があると考えればいい。
したがって、語るべき事柄、そのために析出すべき事柄は、「間」そのものにおいて存在する。
しかし、ここでいう「間」とは、物理的距離として、つまりある単位でもって取り出せるような「間」ではない。
それは変動する。
言い方を替えれば、変化そのもの。
変化を観察することはできるが、対象として取り出すことはできない。
AとBという二点(あるいは二つの異なる断片)によって切断されることによって、はじめて観察可能になるもの。
「間」。ここまで。
(ここまでの間で「間」はすでに十分に観察されている)。
では、その「間」を観察することで何がわかる?「間」それ自体については、ほとんどわからないだろう
(なぜならば、それを示す言葉を私たちがほとんど持っていないから)。
新しい何かがわかるわけではない。AとBという異なる二つの属性への比較考察と理解が深まる。
その理解を「間」が助ける(ということがわかる)。
思考はモンタージュである。さらなる理解はさらなるモンタージュの積み重ねと同じだ。
だがそれは統合へは向かわない。類推。「間」はAとBという異なる二点から類推され得る。ここまで。9時37分














コメント

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infra-mince考/『マルセル・デュシャン、メモ』No.10をめぐって

Matsuoka Seigow氏が、あるとき、少人数を対象に行った講習会の場で、こんなことをお話しされた。

「いま、僕は諸君に向かってこうやってマイクでしゃべってます。僕の後ろには、ホワイトボードがあって、そこには
何か文字が書かれてる。で、ここで僕がこう、ホワイトボードのほうを振り返る。そうすると、諸君のほうを向いて
喋っている僕は、ホワイトボートのほうへ体を向ける僕へ移っていく、入れ替わっていくわけですね。そのときに、
いい?そのときに、喋っている僕と、何か書こうとして振り向くホワイトボードとの〝間〟に、何があるか、ということ
なんです。いい?そこを知りたいわけです。僕とホワイトボードの〝間〟がどうなっているか。」

数多く聞いた興味深い話のなかで、この話はいまでも私の記憶のなかに視覚情報と一緒に残っている。
「間 あいだ」というのは、Seigow氏がとても重要視している見方で、精神科医であり哲学者の木村敏さんも、
この言葉を好んで使われている。私は、あまりに頻繁にこの言葉が使われている場面に触れすぎていたのと、
あまりに簡単に使えてしまう言葉であると思っていたこともあって、意図的に用いないようにしていた。
Seigow氏が、この言葉を通して、微妙きわまりないことを説明しようとしているのは、感覚的にわかっていた。
表現へ向かう私の動機が、そういう微妙きわまりない方面に隣接しているという自覚もあった。
だから、なおのこと、言語化をする手前で据え置きしたいという気持ちがあったのである。
分かったようなつもりで口にしたくなかったのだと思う。


私がここで、わざわざこの〝間〟という言葉を引き合いに出すのは、
マルセルデュシャン(Marcel Duchamp)が残した infra-mince という暗号のような造語について、
何かを言わなければならないと思ったためである。

infra-mince/アンフラマンス
(infra-:「下部、下方」の意をあらわす接頭辞 mince:「薄い」)

岩佐鉄男氏によって、「極薄」と訳されたM.デュシャンの物の見方である。
訳者の岩佐氏は次のように言及している。

 この意味を的確に言いあらわす日本語をうまく思いつかないので、この訳稿では《極薄》という語をあてているが、
 たんに「極めて薄い」というのではなく、ちょうど赤外線infrarou…

工場日記2

3時15分から4時50分まで(おおよそ), 金属板で缶を作る. 油を塗り, 心棒に巻きつけ, 打つ. 工具が形を作る.
しかるべき側に溶接する. 終日そして昨日も立ち仕事で, へとへと. 動作はのろのろ. この缶は鋳物〈ボイラー〉班
の仲間で溶接して作った, と思うとうれしくてたまらない. この仕事のあいだ, ひとりの病気の女工を支援する募金.
1フランだす. だが, 班長はなにもいわない.時間賃[率]との差[額]は0.90フラン

10時から11時まで, 型版〈カルトン〉(その後もつづける). たやすい. やらかしそうな唯一の失態は, 詰めこみすぎ.
なのに, みごとにやらかした! レオンに罵倒される. 50サンチーム. 0.5%. 425個仕上げる. 稼ぎは2.12フラン.
記録は45分. 10時の支払は115フラン. 手当は36.75フラン. 時間賃率との差額合計は, 0.25フラン+1フラン+
0.95フラン+0.25フラン+0.90フランで, 合計2.50フランになる(この程度なら工場はつぶれまい……)

〔シモーヌ・ヴェイユ『工場日記』1935年1月2日から5日まで より〕


去年の夏、蜆TuReの印刷費とデザイン料を捻出するため、郵便局でゆうパックのバイトをした。
週5、午前6時から10時までの実働4時間。
ヴェイユ熱にほどよくおかされていたころで、つねにみすずの『ヴェイユの言葉』を手に持って出勤していた。
歩きながら本を読むという習慣を身につけたのは、前の前の年末に郵便局でバイトをしていたころ。
ひと月のあいだの行き帰りで、大江健三郎の『芽毟り仔撃ち』と遠藤周作の『沈黙』とリルケの『マルテの手記』を読了した。
それはさておき。
工場日記に打たれ、「ヴェイユも労働しているのだから」という理由だけを後ろ盾に、毎朝現場に向かっていた。
6時前になると蝉が鳴きはじめた。心地よい夏の朝の空気を吸いながら歩く道すがら。労働を水のように飲み干そうとしていた。
30kgの米、ゴルフバッグ、業務用の飲料水、ビール瓶1ダース、バカでかい電化製品、大量のうずら卵。
パレットの上で、虫籠に入ったスズムシが鳴いていた。
人間五人くらいは乗れる牢獄のような大きな金属のパレットに積まれた荷物を、地区ごとにパレットに区分けしていく。
ゆっくりやろうと思えばいくらでもできる。だが、アル…